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【記憶を掘り起こす】香川県丸亀市

(適切な写真がなかったため、サムネイルは代わりに「おそらく瀬戸内海の写真だが真相は不明」の写真でお届けします。)

はじめに:香川県丸亀市

香川県丸亀市は、お察しの通り香川県にある市である。県庁所在地の高松市の次くらいに大きい市だったと思う。この辺りの記憶が曖昧なのは、10年くらい前そこで小学生をしていた時に社会科の授業で習った記憶を、忘却の彼方から掘り起こしているためである。調べてもいいのだけど、調べたら変に現実味が増してしまう様な気がして、曖昧な記憶のまま進める。

父の転勤に伴って数年間移住していた香川県丸亀市の記憶は、10年経った今でも、私の心の奥底の、柔らかいところにひっそりと横たわっている。私は基本的に都会っ子で、東京に住んでいた時間が一番長いし、今もロンドンを心の底から満喫している。だけど、街の真ん中に小さなお城があり、ため池が点在し、空が広い香川県丸亀市に住んでいたという記憶は、もしくはそこで見ていた瀬戸内海や、綺麗なものや、食べた美味しいものたちの記憶は、今の私の感受性とか、日本についての感情とか、そういう大事なものを形作っていると思う。

ずっと「また訪ねたい」と思っていた香川県丸亀市についての記憶を、ここに書き連ねようと思う。

父と丸亀

墾田永年私財法

私の父の記憶の半分ほどは、父と丸亀市で過ごした時間のことである。引っ越す前は(まず、幼かったこともあり引っ越す前の私の記憶があまりないこともあるが)仕事が忙しかった父が、家にいる時間が増えた。官舎の裏の駐車場の一角にススキがしげっているスペースがあって、父と「墾田永年私財法だ!」と言いながらススキを刈って、鍬で土を掘り起こして、栄養を混ぜて、畝を8つくらい作って、植物の苗を買いに行って、野菜を育てた。トマト、なす、きゅうり(放っておいても大量にできる)。オクラ(アブラムシが大量につく)。カボチャ(受粉がめっちゃ面倒)。ゴーヤ(これも受粉が大変)。しそとバジル(繁殖力が強くて、引っ越す時には駐車場の他の場所にまで広がっていた)。たまに同じ小学校の友達が遊びにきて、父がニコニコ話しかけていたのがなんだか気恥ずかしかったことも、父がススキの根っこを取り払うのにやたら時間をかけていたこと(生えてきてしまうから)もよく覚えている。そんなことをしてよかったのかは露知らないが、お金を払えば漠然と生きていられる都会に生きるものとして、父と一緒に手を動かして、そういう「生きることの根底」にあるものを垣間見たことは、すごく大事だったと思う(もちろんたった8つの畝が生きることの根底か、と言われればそんなわけはないのだけれど)。

父の職場

どこかでも書いたが、父の職場に連れて行ってもらったことがあった。一度父の仕事中の姿を見に行ったり、テレビにちらっと映ったのを見たことはあったけれど、父側に立って職場に行かせてもらったのは初めてだった。広いオフィスを持った父の部屋。職場の方。駅前のお店。もしかしたら後から補填した記憶かもしれないけれど、なんとなく父が嬉しそうにしていた様な気がして、私もそれが嬉しかったことを覚えている。本当は父の仕事の話や、学生時代に考えていたことや、あのオフィスにたどり着くまでの話を聞いてみたかった。

小学校の友人たち

小学生女児の性か、友人関係に苦労したのも丸亀でのことだった。私も悪かった。昨日の友達が翌日の非友達みたいなことも多くあって、あまり居心地は良くなかった。それでも、尊敬している友達も、大好きな友達もいた。

覚えていることがある。丸亀で最初にできた友達のお父さんが、お休みの日に車を出して、二人まとめて科学博物館に連れて行ってくれることがあった。帰りにはショッピングセンターに行って、二人でぶらぶらさせてもらった。彼女のお父さんが学校の状況を知っていたのかわからないけれど、仲間はずれにされている時でも、彼女のグループと私のグループがうまく行っていない時でも、休日に他の子がいない場所に行けば、私たちは初めて会った時と同じように仲良しでいられて、そのことが本当に救いだった。私の父とはまた違うタイプのお父さんだった。ヒョロリと背が高くて足の速い彼女と遊んだ日々は、すごく楽しかった。

彼女と通っていた学校は、公立の学校なのに、制服があった。お城を中央にして東西南北に小学校があって、城北・城東・城西・城南と名付けられていた。そのネーミングセンスが、小学生ごころには(正直に言えば今でも)なんだかファンタジーぽくって、すごくワクワクしたのを覚えている。セーラー服のリボンが学校ごとに違っていて、他の小学校の子と明確な差別化がされていたのもなんだか楽しかった。私はいまだに東西南北がパッと言えなくて、方角を示す必要がある時には、いつもお城を中心とした香川県丸亀市の地図を頭に思い浮かべて、それぞれの小学校の位置を思い出して東西南北を当てはめている。

お城

丸亀市には、丸亀城というお城がある。学区外だったので本当はダメだったのだけれど、行き場に困ったらとりあえずお城に行っていた。

今もいるかはわからないが、お堀の裏側(市役所がある側を表と見なす)には二鳥の黒鳥が住んでいた。動物園に行かないといなかった、あんな大きな動物が自然に近所に住んでいるのは、なんだか不思議な街だった。道路のど真ん中にお堀から這い出した亀が落ちていることもよくあった。石垣の根元に突然孔雀の入った檻があったりして、お城は奇妙な場所だった。

丸亀城は、桜が綺麗なお城でもある。高く聳える石垣の上に立つ天守閣は、春になると、一面に咲く桜の木がまるで雲のように広がって、その中にぽつんと浮いている様に見えた。天守閣に登って見下ろすと、下に桜の花が雲のように広がっていて、春の香川の桜が今までの21年間で見た一番綺麗な桜の花だと思っている。

お城の石垣を登って行って、途中で登山道を外れて山に入ってしばらく行くと、大きな桜の木が生えているところがあった。整備された道の外で、普通だったら行けないところなのに、そこの周りはなんとなく開けていて、昔整備されていたんです、というような雰囲気があった。整備された観光地としてのお城と、ひっそりと隠れた昔そのままの場所の二面性があるお城は、小学生の子供たちにとっては特別な場所だった。

名産

丸亀市といえばうどんの街だけれど、レタスとか、レモンとか、骨つき鶏とか、はまちとか、色々美味しいものがあった。家の近くにお魚屋さんがあって、たまに入る鰹のたたきがとてもおいしかった。学校帰りに「まなかちゃん、今日鰹あるよ」とおばさんが教えてくれて、私は帰って母にそれを伝えて、一緒に鰹を買いに行く。晩御飯がもう決まっている日は買いに行けなかったけれど、たまにタイミングが合って食卓に並んだ鰹は、とても美味しい鰹だった。旅行で連れて行ってもらった高知県で食べたカツオのたたきも、本当に美味しくて、その時から私の好きなお刺身は鰹のたたきになった(たたきってお刺身?)。

イギリスに来てみて、日本に旅行する人が、東京や京都だけではなくて、四国を目指すことも多いことを知った。食べ物が美味しい、お遍路さんをやってみたかった、海が綺麗だ、その理由は様々だ。草間彌生氏の美術品が、瀬戸内国際美術祭の名残で残っていることもあるし、瀬戸内海自体が綺麗なこともあると思う。日本という国の魅力がいろいろなところにあること、それが海外で認められつつあることを、10年越しにひしひしと感じている。自分が住んだことのある場所、そして良さを知っている場所が、遠く離れた異国の地で憧憬の念を持たれているのは、引越してしまった今でも嬉しいことだ。

終わりに

遊び場がなくて、はまちの養殖場とか、ゴミ焼却場とか、現代アートの美術館とかに出入りしていた。どこも小学生には寛容だった。貨幣制度が成立した経済社会に住んでいたら忘れてしまうような、野菜の収穫とか、魚の養殖とか、ゴミの処分とか、そういう生活を支える基盤を自分の目で見たということ、そしていわゆる地方と呼ばれる場所のさまざまな魅力を目にしたことは、私の感受性を育んだ経験のひとつだし、卑近なところで言えば就職活動に大きな影響を持っていると思う。

こんなに色々書いたのは、丸亀市を出てから10年が経ってから、とうとう丸亀を覗きに行ける日が来そうだからである。ずっと行きたいと思っていた。コロナのこともあったし、私があまり近くに住んでいないこともあって、ずっと先送りにしていたけれど、とうとう。だからこそ、現実に塗り替えられてしまう前に、美化されていた記憶を書き起こしておきたかったのだ。

私の美化された記憶が、どれだけ形を保っているのかを探しに。

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