見出し画像

ぺヌティエの演奏を聴いて

昔Evernoteに書いてた日々のメモを
数日前に思い立って以来少しずつ読み返している。その中からのメモ。
自分ってこんなことを考えていたんだなあって。今もこういう気持ち、変わらない。

2018/5/14

ぺヌティエの演奏を聴いて

モーツァルトとはどんな人だったのだろう。
モーツァルトの悲しみとはどんな悲しみだったのだろう。

シューベルトの孤独とはどんなものだったのだろう。

そういうことを考えないで音は出してはいけない。
ぺヌティエのような本当に素晴らしい演奏家の演奏で聴くと、
シューベルトを聴くということは
シューベルトの魂にそのまま触れることなのだなあとつくづく感じる。

そこでぺヌティエが弾いてるのだけど
でもある意味でぺヌティエの存在が透明になって
ぺヌティエのピアノを通して
そのままシューベルトの声を聴いている感覚。
それが本当にシューベルトに寄り添った演奏だと思う。
あんな風に演奏したい、
いつか。いつか。

本当に心洗われた。

無私とはこういうことなのだ。
一体化するということ。
目の前で起きていることを全て受け止められる、広い心。深い懐。暖かい心。人の痛みがわかる心。
それを持つ人が今目の前で弾いてくれているぺヌティエなのだなあと思った。

1番後ろの席だったはずなのに、
今そこで私のために弾いてくれているような感覚だった。
とても親密で暖かい。
それでいて悲しみや生きることの厳しさも自分のことのようにしっかり受け止める。

モーツァルトとはどんな人だったのだろう。
モーツァルトの悲しみとは。
それを探しながら弾くことだけが
結局進むべき道を照らしてくれる気がする。

そのためには彼の年表を見たり、作品をたくさん聴いて、彼の声をたくさん聴いて、考えていかないといけない。
モーツァルトという人間はどんな人だったのかと。

結局どの作曲家もそう。
だって彼がどういう人間だったのか、
彼の悲しみや孤独とは何だったのかを考えずして、
音を出せるわけがない。
彼らの魂の発露である音楽を
この世に再び本当の生命を持って
蘇らせるには、
それだけ向き合わないで出来るわけがない。

あんなにミクロ世界のモーツァルトを聴いたことがない。
あれだけ孤独の深いシューベルトの1オクターブの和音を聴いたことがない。

モーツァルトを弾くとはこういうことなのだ。
一音一音慈しむように、彼の魂に寄り添うように、彼の内面を辿っていくことなのだ。
厳しいまでに。
それでこそ、彼の無邪気な優しさが際立って貴く思えるんじゃなかろうか。

シューベルト、あなたはそんなに繊細でやわらかい心を持って世の中を生きていたんだなあと思うと涙が溢れてくる。
生き辛かっただろうなあとも思う。
そんなあなたの、それでもそこに希望を見つけようとする健気な魂を愛おしく感じる。

子供のフリして誰よりも深い精神と傷跡を持ったモーツァルト、そんなあなたを愛おしく感じる。
私はもっとあなたを深く知りたい。

よかったらサポートよろしくお願いします! 励みになります☺️🌱