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青と軋轢

まだ午前9時なのに、日差しは鋭い。汗で張り付いたワイシャツの中を風が通るように、自転車に乗りながら体の角度を調整する。校庭の脇の道路を通ると、野球部はもう既に練習を始めていた。グラウンドの白い砂と青空の対比が眩しい8月。
中庭に自転車を止めて新校舎の中に入ると、目の前がぶわっと緑一色に染まった。太陽光の残像が消えるのを待ち、息を整えてから階段を上がる。
美術室に入ると、やはり先客がいた。いや、というかそれを目当てに早く来たのだ。
「おはようございます、すずみ先輩。今日も早いですね」
「あ、おはよう。なんか、早くこの絵描きたくて」
それだけ答えると、すずみ先輩はもうキャンバスに視線を戻していた。5月から描いている、F100号の青空と踏切の油絵。画面の大部分を美しい青色が占めていて、とてもきれいだ。なんというか、少し水色っぽい品のいい青。彼は美術室に誰よりも早く来て、誰よりも遅く残ってこの大きな絵を描いている。
奥のロッカーで作業用のTシャツに着替えてから、私は先輩の絵に近づいた。私は、いつも無口にキャンバスに向かう彼の後ろに立って、色々話しかけてちょっかいを出すのが好きだ。自分で絵を描くよりも好きかもしれない。
反応は薄いけれど、先輩も、私に話しかけられるのは別に嫌じゃなさそう。それがわかってるから私も話しかける。
「あれ、今日は赤と黒なんですね」
このところずっと青かった先輩のパレットには、赤と黒の絵の具が広がっていた。
「そう、空の部分にはほとんど手を入れ終わったからね」
言いながら先輩は手を止めない。先輩、すこし髪が伸びたな。
「大きい絵描くの、好きなんですか?」
「好きっていうか、うん、この絵にはこの大きさが必要だと思ったから。」
「そうなんですね」
「うん」
「すずみ、って響きのいい名前ですよね」
私が唐突にそう言うと先輩は少し笑った。
「どうしたの、急に」
「佐倉涼。素敵な名前だけど、初見では読めなさそう」
「そうだね。よく、りょうって間違えられるよ」
先輩は会話しながらも、キャンバス上の線路の上に、赤と黒の絵の具を置いていく。こうやって、上手い人の絵がどんどんすすんでいくのを見るのが好きだ。
「私もそういう素敵な名前をもって生まれたかったなー」
「田中美里、素敵だよ」
「普通すぎますよ」
「普通なくらいがちょうどいいよ」
「そうですかねえ。先輩って、兄弟とかいるんですか?」
「なんで?」
「いや、いたとしたらどんな名前なのかなーって。だって涼なんて名前付ける親御さん、すごくセンスいいじゃないですか」
先輩は黙ってしまった。でも、絵を描く手は止めない。なんか、まずいこと聞いちゃったかな。
線路上の赤と黒の絵の具は、横長の形になっていく。これは、人?
「妹が1人いるよ。すみか。澄んだ夏と書いて澄夏」
「そうなんですね!妹さんの名前も素敵です、ね…」
いつの間にか、キャンバス上の線路の上に、血まみれで倒れている女の子が姿を現していた。頭が取れている。
「ねえ田中さん、君は青空の下の轢死体を見たことがある?」
先輩がこっちを向いた。いつも表情の乏しいすずみ先輩が、私が話しかけてもめったにキャンバスから目を離さない先輩が、こっちを見ながら、にこやかな笑顔を浮かべている。
「レ、レキシタイ…?」
「車とか電車に轢かれてぐちゃぐちゃになった死体のこと。僕はあるよ、見たこと。ほんとはこんなにね、この絵みたいにきれいに人の形は保っていないんだ。」 
この人、すごく目が綺麗だ。私はそう思った。
先輩は堰を切ったように喋りだした。
「今と同じ8月だったよ。僕は轢死体を見た時、すごく絶望したんだ。でも、同時にとても美しいと思った。こんなに美しいものが世の中にあるのかと思った。君は深く絶望したことがある?深く絶望するとね、目の前のものの色彩がいつもの何倍も鮮烈になるんだよ。影も。自分の体の芯は冷えて沈んでいくんだけれど、まわりの風景はすごくいきいきし始める。きっと戦時中の青空ってこんな感じだったんだろうと思った。鮮血の赤と、静脈血の黒と、空の青。ほら、8月15日の黙祷のときに、我慢できなくて途中で目を開けたことがあるでしょう?あの青だよ。
描きたいと思った。だから僕は絵を描いてるんだ。あの時見た轢死体と、鮮烈な青色を描くために、デッサンを頑張った、油絵を頑張った、毎早く来て、遅くまで残って、絵描いてたんだ、やっと、描けるくらいの画力を手に入れたから、今年の春からこの絵を描き始めたんだ」
私は動けなかった。
涼先輩は静かに私の手を取って、絵の青色の部分に触れさせた。乾いている。
「ねえ田中美里さん、君はとても澄夏に似ているよ。あの夏死んだ、澄夏に。」
先輩が私の手首を掴んで絵にぐっと押しつけると、油絵の具の表面の乾いた膜がにゅるりと破れて、中から生乾きの、一段と鮮やかな青色が顔を覗かせた。



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