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さあ!瞑想をはじめよう

はじめに

こんにちは!
瞑想実践研究科の心庵まもるです。
noteでは瞑想に纏わる情報発信を行っています。
瞑想実践の方法やその結果としての効用、また瞑想に関する雑記なども書くことがあります。

内容のベースは自身の瞑想実践に基づく研究の結果をお伝えしているものです。
時々、脱線することもありますが、お付き合い頂ければ幸いです。
また、私は著作活動も行っています。

現時点では3冊の著作Kindle(電子書籍)、POD(紙の本)という形式で出版しています。
どれも瞑想を起点とした日常にある様々な課題や問題と向き合うテーマです。

自己紹介がてら以下にリンクを張っておきます。
宜しければ覗いてみてください。

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【Kindle版】

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【POD版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【Kindle版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【POD版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【Kindle版】

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現在、書籍は三冊、出版されています。
何故、このように瞑想の本を起点とした執筆活動をしているのか。
その点については下記記事で語っています。

また、瞑想を広げる活動をしている理由については下記記事を参照してみて下さい。

前置きが長くなりましたが、以下より本編の記事になります。

1.瞑想とは何だろう?

改めて瞑想というものを考えてみる。
瞑想というものは古くは宗教的な修行から始まっている。
発祥はインド周辺。

ヒンズー教、ジャイナ教、バラモン教、そして仏教‥etc。
宗教の教義などは違えど修行として瞑想が取り入れられて来ました。
では、瞑想とは宗教行為そのものなのでしょうか?

そうではありません。
あくまで瞑想は宗教の中で行われてきた営みであって宗教そのものではありません。
例えば宗教の中には沐浴をする習慣があるものもあります。
では、沐浴は宗教行為かといえば、そうではないでしょう。

宗教とは関係なく沐浴をすることはあります。
同じように瞑想も宗教行為そのものではないのです。

では瞑想とは何なのでしょうか。
狭義の意味で言えば、精神を統一すること。
このように定義することが出来ます。

精神統一という言葉は古くから使われています。
何となく心を鎮める時にも一般的にも運用されている言葉です。
でも、良く口にする言葉ではありますが、意味を深く理解して使っている方は少ないのではないでしょうか。

そこで少し、この言葉の意味について考えてみたいと思います。
精神を統一する。
ということは、即ち、逆に言えば精神は分裂している状態にある。
このようなことが言えるのではないでしょうか。

精神の分裂。
この言葉から連想されるのは、かつて精神分裂病と呼ばれた精神疾患があります。
厳密な病理上の定義については置くとして、簡単に言えば、心がアチコチに向かって整理されていない状態。

つまり、本人自身も傍から見ても矛盾だらけで何が起こっているのか分からない。
秩序や調和が見いだせない精神状態を表しています。

程度の差はあれ、人の心は結構、無秩序なところがあります。
仕事で経理の集計をしている時にふと家のことが気になってしまう。
あるいは、食事をしているのだけれど、明日の会議のことで頭がいっぱい。
何を食べているのかも感じ取れていない。

そんな状態になることは珍しくはありません。
これが酷くなり社会生活に著しく支障をきたすようになると精神疾患としての病名が付けられるということです。

私たちの心の状態は常に分裂気味であると言えます。
だとするならば、分裂を治めて秩序と調和を精神に齎すにはどうすれば良いのでしょうか。
それこそが精神統一の課題でもあります。

では、実際、瞑想は精神統一するために何を行うのでしょうか。

2.瞑想のメカニズム

瞑想が精神統一のために実施される営みであるならば、どのようなメカニズムでそれは果たされるのでしょうか。

瞑想法と呼ばれるものは沢山の種類があります。
その一つひとつは個性的な部分もあり、細かく見ていくと本質が却って見えなくなります。

だから、まず、一つの瞑想法を取り上げて大筋において瞑想が何を行う営みであるのか。
これを理解していくことにしましょう。

一番、シンプルな瞑想法に呼吸の瞑想法があります。
無論、呼吸を使った瞑想と一口に言っても様々なタイプはあります。
しかし、集約して考えてしまえば、呼吸とは息を吐いて、吸うこと。
これに尽きることでしょう。

鼻から吸うのか、口から吐くのか。
長く深くするのか。あるいは浅く早く行うのか。
やり方はあれども、吐いて吸うというところが共通です。

それから、呼吸を意識的に行う。
ここも共通点と言えるでしょう。
通常、私たちは呼吸を意識しません。
それを敢えて意識して行う。

ここに瞑想時の呼吸と通常時の呼吸との差があるわけです。
では、ここで考えてみて欲しいことがあります。

何故、このようなことをするのでしょうか?

瞑想というと何となく呼吸を整えることや意識することは当たり前のように要求されます。
そして、瞑想に取り組む人も大して疑問にも思いません。

そんなものだ。

そう理解して実践に進む人が多いと言えるでしょう。
あるいは、「呼吸を意識的に行うことで自律神経を整えます」などと理解している人もいます。

これは間違いではありません。
しかし、自律神経という存在も呼吸がそれを整えることも一つの概念的な知識です。
長い年月を経て科学的に研究してきた結果として判明したことに過ぎません。

古来の瞑想者がそのような知識を前提として瞑想をしていたと考えるのは無理があるでしょう。
では、呼吸を意識するということに如何なる意味があるのでしょうか。

それは、今、行っていることと心が向き合っていることを一致させること。

ここに重大な意味があります。
先ほど、精神分裂について語りました。
仕事中に家のことが気になる。
それは今、職場で仕事をしていることと心が向いていることが一致していないということになります。

呼吸をしているということは、只今、間違いなく行っていることです。
それを意識することで今現在と心の向き先が一致します。

つまり、精神が統一されているということです。

瞑想というものは如何なる作法のものであれ、究極的にはこの根本が果たされることになります。
逆に言えば、この根本を果たさないものは瞑想ではないのです。

3.瞑想により実現すること

瞑想とは精神を統一するために今現在の出来事と心の向き先を一致させること。
そのような根本的な部分における結論を導き出しました。

では、精神が統一されると何が実現されるのでしょうか。
それは、人生を生きることが出来るようになります。

「そんなの誰だって同じように生きているぞ!」

そう言いたくなった方もいるかも知れません。
しかし、本当にそうでしょうか?
私たちはいつだって心の中で現実とは別の方向を向いて生きていませんか?
自分勝手な憶測や偏見でものを見ていませんか?

目の前の人ときちんと向き合うこと。
為すべき仕事に集中して成し遂げること。
食べているものをしっかりと認識して味わうこと。

本当に出来ていますか?
いつだって私たちは無意識の中で物事を処理して人生をやり過ごしている。
そう感じることありませんか?

それは本当に人生を生きていると言えるのでしょうか。
私たちの人生は一瞬で過ぎ去る何かを達成することを目的として生きているわけではありません。
本当は生きるというその過程そのものが目的のはずです。

それを実現させるための近道は瞑想だと言えるでしょう。

まとめ

改めて瞑想の根本について語ってみました。
基本であり、瞑想実践者には当たり前のことかも知れません。
でも、世の中の瞑想情報を垣間見るとどこか、瞑想の本質からずれているものが多いようにも感じることがあります。

もちろん、様々な見解があって良いとは思います。
しかし、あまりにも瞑想が曲解され、何か特別な行為であることが強調されるようになると道がどんどんあらぬ方向に進んでしまう懸念されます。

今回の記事のような話は瞑想のあまり面白い部分ではないかも知れません。
しかしながら、とても重要なところでもあるとも言えます。
今回は久しぶりに原点に回帰して瞑想実践の提言の一つとして語ってみた次第です。

長い文章をここまでお読み頂きまして感謝!

心庵まもる


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