言葉にするのが苦手だとずっと思ってきた


言葉にするのが苦手だとずっと思ってきた。
説明が苦手、論理的に話すのが苦手、私って国語苦手だったのかな、でも人の気持ちや文脈はなんかわかるんだよな。
感じて寄り添ったり涙が流れるのに、いざそれを言葉に代えようとするとさっきまでの感覚がボロボロと崩れて既製品のようなありきたりな言葉でできた、でも説明としてはうまくない何かになって人の元へ届いてしまう。
なんだかなあ、ろくろを回して完成間際にミスってへにょへにょになった壺、それを作り上げた時の気持ちを想像したら、すごく似ていた。

私が思考している時をよくよく観察してみると、言葉が思考を繋いでいると言うよりも頭の中でイメージが先行して発生し、そのイメージに沿って物語(思考)が展開されているようだった。
みんな同じようなものだと思っていたけれど、どうやら人によって違うというのが夫と話していてようやくわかった。
もちろんそれぞれの考え方(結論)が違うと言うのは十分に理解していたつもりだが、そもそも思考の仕組みが違うということについて、つまり私のようにみんながイメージ先行で展開されているわけではないということは、前提条件すぎて抜けていた。

自分の「考える」過程が言葉との相性が良くなかったのかもしれない。
なぜなら脳内では考えるというよりも「見て」いるから。
私にしか見えない映像で理解してしまっているから。いや、まさにそうかもしれない。今まさにこの瞬間も「見て」いる。
今は「見た」ことを書こうとしている。

しかしこれを説明的に、ロジカルに書こうとした途端にへにょへにょの壺が出来上がってしまう。
じゃあなぜ今これが書けているかと言うと、考えていることを推敲せずに思考の速度で入力しているからかもしれない。
なるべく口語で、流れるように。
このやり方は私と相性が良いらしい。


一方で最近詩に興味を持った。
小学生の頃から詩がなんだか気になって書いたり読んだりしてきたけれど、中学生の頃には「痛さ」に直結してしまうのが気恥ずかしくてずいぶん離れていた。

今になっても結局詩というのがなんなのか、どう読んだらいいものなのかはよくわかっていないけど、私が思うに、感じたイメージをかろうじて当てはめることができた言葉たち、その集合体、というのができる限りの説明的な表現かなと思う。
なので、イメージ先行の私の思考に合っているような気がした。

感じることがあればそのままメモを取り、感動の破片を集めておくという作業をすることにした。
詩にはリズムがあると思っている。書いた人のリズムがある。詩を読むのはノれるかどうかだと思う。
ノるには感じるしかないとも思う。
私の文章には読点(、)が多い。
これもまた私のリズムで、しかしこのことに気づかなかった頃はこのリズムを殺して正しい読みやすい文を書こうとしていた。

もちろんこの文章は論理的でわかりやすく読みやすいものではないが、私のリズムがある文章だと思う。
少なくとも私は書いていて心地よく、読んでいて流れを感じる。
この流れは起承転結の流れではなく、言葉そのものの持つ音、それをつなぎ合わせたリズムなのだろう。

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口語で書いていると思ってもないゴールに辿り着くこともわかった。
わたしははじめこんなことを書くつもりはなかった。
本当は先日の夜中、夫と話した気づきについて書こうと思っていた。
でもその時も「見て」いたのでその事を説明するのは難しいだろうなと思いながら、もしかしたら書いているうちにうまくいくかも、なんて思いながら書き始めた。
まさか詩の話になるなんて、しかもリズムにノるかどうかだなんて、、
これは本当にあの夜私の中で見ていたイメージの話じゃないか!

そうなると、もしかしたら私は説明しようとせずに感じたことをリズムをつけて話すこともできるのかもしれない。
今まで人と話す時に論理的に、わかりやすくと意識しては困難さを感じていたことが、思うままに話すことによって寄り道ではなく近道になるかもしれない。
これは私の中でなかなかの大発見だった。というか今発見した。


こうした発見をしたとき、わたしは幸福感に包まれる。
真理を見つけたと思う。
しかし真理だって本当は見つけられるのを待っていたんじゃないかと今は思う。
ずっとそこに佇んでいてじっと見つかるのを待っていた。
真理はずっと私の中にあった。
真理は幸福である。
そして幸福だって私に見つかるのをずっとじっと待っていたのだ。
幸福だって私の中にずっとあったのだ!

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