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中学2年間不登校だった娘が大学生やってます。



※ヘッダーは、昼夜逆転していた頃の娘(13才)が、毎日撮り続けた明け方の写真の1枚です。

娘の帰省

今年の4月から大学生になり、同じ県内で一人暮らしを始めた娘。夏休み中の3週間を実家で過ごして帰っていった。
滞在中、一緒に出かけたり思い出になることはしなかった。イベントらしきことは、誕生日のケーキを食べて、家で手巻き寿司やベランダ焼き肉をした程度。
なんとなくもの足りなさが残って、最後の日の晩、締めくくりに父母娘3人で線香花火をした。
パチパチと火花の音が景気よかった。
昔ながらの火薬の臭いに懐かしさを覚えた。
小さい頃は子ども2人とも活発で、近所中の子ども達と花火をしたっけ。
あの頃の何かが間違っていただなんて今は考えない。そんなこと思わなくていい。

娘は中学1年の終わりから学校に行けなくなり、2年間の不登校の後、私立一貫校から通信高校へ進学。通学コースに在籍して少しずつ学生生活に慣れていった。受験のための勉強は遅れに遅れたが、一浪してAO入試で志望校に進学し、一人暮らしを始めた。

新生活では、授業もほぼ出席して単位も落とさず、新しい人間関係を楽しんでいる。
家事もそこそこ頑張ってキレイに暮らしていてビックリ!
上出来すぎるスタートだ。

すっかり元気になった、と思って安心していたが、実家に戻ってきたら、夜は9時間寝て、昼寝は3時間。1日中ソファーでスマホを握り締め、たま〜に友達に会いにいくだけ。パジャマからパジャマへ着替え、使ったコップ1つ洗わない。
家にいた頃のままの娘がいた。
「頭が痛い」「眠気が取れない」と不調気味。もともと自律神経が乱れやすい体質、と言うより乱れたまま定着した。
家に帰ってくると、安心して甘えられるんだろう。ふだん気が張っている分の疲れが溜まっているのかもしれない。
休むために帰ってくるのが実家なんだろうから、それでいい。解っている。

こんなに回復したんだ、と全てに感謝しているつもりでも、娘を見て心が乱れることが今もある。
手伝って欲しくてイラっとしたり、寝てばかりいることを過剰に心配したり、勝手に世話をやいて疲れてしまったり、急に私一人になりたくなったり、とにかくペースが乱れる。
もう慣れっこになっているはずなのに、何故?
きっと辛かった頃の思い出が妄想を作り出して、不安と失望を呼ぶんだろう。
やはりまだ元気になっていないのだろうか?社会人になったら毎日働けるだろうか?と余計なことを考えてしまう。
いや、先々のことは心配する必要はない。社会も変化が激しい。むしろ心配していたら悪い未来を作り出してしまうだろう。
つい弱気になる自分に、そう言い聞かせている。

この機会に、学校に行かなかった子と数年間そばで暮らした私の思いを、書き留めておこうと思った。冗長な文章になるが、雑記帳的なマガジンなのだから勢いで書いてしまおうと思う。

不登校の子と過ごす親の気持ちの処理について

(本音全開ですが今は変わりましたからお許しを。)
不登校が始まって最初の2年くらい、私には感情の嵐が吹き荒れていた。
ティーンエイジである7年間を大半を家のソファで過ごした娘。(篭ることをしないで必ずリビングのソファにいた。)
赤ちゃんでもないのにずっと一緒にいるストレスは大きかった。私は若い頃、学校が大好きだったから訳が解らないまま娘を宇宙人のように感じていた。
時には、可愛いと思えなくなって、好きかどうかも解らなくなった。
そんな時はこう考えた。
「腹が立って心配で、頭から離れないんだから、よっぽど愛情を感じている証拠だ。嫌いだったら気にならないはず。心配するのは好きだからだろう。これで、私は我が子に愛情を持っていると確認できた。」
本人が聞いたら忍びないかなぁ。八方塞がりで張り詰めていた頃の話なので許してほしい。

大変だった頃は、よく散歩に出て遠いほうのコンビニでスイーツを1人分買って帰って、自分だけこっそり食べた。そんなくだらない”腹いせ”を繰り返していた。
私の場合は娘が中学生だったから、離れる時間が作れたのはありがたかった。そうは言っても長時間離れると不安になったり、最悪ナイフを持ち出す可能性もあったから、基本的には近くにいた。
家の中では視界に入らない別の部屋に移動して、私も自分の好きなことをする。それがお互いのためだった。ピアノを弾いて、不登校の情報収集をして‥何もしないよりはずっと気持ちが楽になった。


少し状態が落ち着いた頃には外にも積極的に出た。
ヨガに通ったり、ゴスペルを習って歌ったり。心理学や教育学のセミナーも通った。起業ママ達とも繋がってzoomを覚えた。十数年ぶりに就活してパートの仕事を始めたのも、娘が不登校になったのがキッカケだった。

仲の良い友達には、素直に子ども達の不登校を伝えていたからか、身近に不登校ママの仲間が常にいた。報告し合って、情報交換して、一緒に一喜一憂しながら助け合ってきた。
この繋がりがあったのが何より大きかった。
暗い穴に落ちて一人ぼっち(子どもと二人ぼっちかな?)になったような孤立感と絶望感、先の見えない不安感。そして自分責め。
それまで、自分のことは二の次にして全身全霊で子どもに向き合ってきたのに、「それがいけないんですよ」と世の中の全員に言われているような気がした。
ぐちゃぐちゃの感情を小出しにママ友達とシェアできたのはラッキーだった。
「ウチの子、まだ起きないんだけど」
「やっぱり予定ドタキャンされた〜」
「余計なこと言って泣かれた‥落ち込む」
今も、日々の溜息がLINEトークに残っている。
アレがなければ、”巨大隕石が地球に激突して地球人全員が一気に消滅”みたいな妄想を本気で望んでいたに違いない。

不登校になったら気をつけたいこと

不登校は人生の終わりじゃない。
一般的な太いコースをその時は通っていない状態、というだけ。冷静になって知識を入れれば、未来は開かれていることに気づくだろう。
6年間、娘と家で過ごす中で、大事だと思った考え方を書いておく。もし学校に行けない状況が続いたら、意識してほしい。

一番最初に伝えたいこと、それは「犯人探しをしない」ということ。
過保護な母親のせい、いじめた友達のせい、厳しい先生のせい、など短絡的に考えない。無関係ではないけれど、何かが唯一の原因ということはまずない。性格や家庭環境やタイミングなども含めて様々な要因が複雑に絡み合っている。精神科医の先生もそう諭された。
本人に聞いたところで、どうして学校に行けないのか自分でも解らないことが多い。原因を追求しても悪化こそすれ改善するものではない、と経験から思う。
必要なのはどんな姿の子でもそのままを受け止めること。理解できなくても、例えて言えば首の座らない赤ん坊を抱っこしているみたいに、命を受け止めることができれば。
気づくのにずいぶん時間がかかったけれど、なんとかここまで来れたと安堵している今の振り返り。

二つ目に言いたいのは、子どもの命を最優先してほしい、ということ。
何を大げさな、と言わずにしっかり観察してほしい。とても難しいことだけれど、子どもの言葉は否定せずとにかく最後まで聴いてあげたい。脈絡のない甘えたことを言い出すかもしれないが、頭ごなしに否定するのは信頼を断ち切る行為だ。10代は驚くほど死に近いところにいる。ぞっとする経験をしてからでは遅い。
親は子どもに感情をぶつけないことが、我が子を死から守るための必須条件。子どもは親を無意識に試している。何も価値がない(と自分で思っている)今の自分を親が受け止めてくれるかどうか、必死に手を伸ばして確かめているのだ。

三つ目に大事なことは、知識で親自身の感情を楽にしてあげること。
実際には、親の感情も嵐が吹き荒れてしまうだろう。そんな中で、学校に行っていないことを冷静に捉えるにはどうしたらいいのだろうか。
感情に対抗できるのは知識しかない、と私は思っている。不登校から社会へ戻った有名人の実例を知ったり、不登校の変化の過程(4段階とか7段階とかモデルとなるステップが存在する)を知っておいたり、心理学の本を読んだり、子どもの権利条約や保育士資格のテキストを見たり、早い時期から積極的に親は知識を身につけてほしい。冷静に調べれば不登校の先に道はいくらでもあることが解るし、不登校の各段階に照合して観察できるようになる。
また、自分と子どもとの距離・自分と自分の親との距離も客観的に考察してみるとヒントになる。人は無意識で親にされたことを我が子にすると言う。親としての自分の「当たり前」が本当に必要な当たり前のことなのか、客観的に疑うことは大事な行程だろう。

そして、四つ目。
親自身が人生を楽しむこと。自分がやりたいことをする時間をしっかり取ることをしてほしい。充電が余裕を生む。ガサガサの手で頬を撫でてあげても心地よくはないのだもの。
今の私は、やりたくないことは、辞めるか手を抜く。やりたいことはリストアップして優先的に時間を取る。パートも好きと思える仕事に変えた。
そうやって自分を甘やかさないと、子どもの自由を受容できるキャパが私にはない、と理解した。
自分は親に合わせて、親の望む選択してきた期間が長かったから、遠回りはしたが「私の人生は私が決める」と決めて、ようやく「子どもの人生は子ども自身が決める」それが当然と思えるようになった。

不登校に隠された人生のヒント

そして、不登校を抜けたセンパイたちが言うことが理解できるようになった。
不登校をきっかけに自分(や家族)が変われた。不登校があったからより良い今がある、と言う話。前は信じられなかったが、今は私も実感している。
親も子も不登校から得る物は大きい。
それまで抑えられていた家族全体や母親や子の「望み」のようなものが歪んだ形で不登校として表面化しているという。痛みを伴う改革ではあるけれど、家族や自分の「本来のありたい姿」に向き合うタイミングが来ているのだと受け止めてほしい。
今、不登校の真っ只中にある人は悲嘆にくれながら最悪と感じるだろうが、周囲の誰もが”変わる”きっかけであることには間違いない。きっかけと捉え変わろうと受け入れれば、きっと上手くいくはずなのだ。
いつか不登校になったから得たものがある、と思える時が来る。不登校にならないほうがいいのはもちろんだが、不登校からの収穫は大きかった、と言える時が来るのだ。
きっと未来は明るい。そう根拠なく信じることが希望を引き寄せる。

シンプルな答え

とにかく大事なことは根拠なく信じること。
私は大丈夫。
この子は大丈夫。
何とかなる。
まるっと信じることが結構できるようになってから物事が好転したと思う。
無条件に信じる。
まずは自分を。そして子どもを。
本気で思ってないと子どもに通用しないから、まだ迷いの多い私の修行はしばらく続くだろうけれど。

子どもが不登校になって、私も変わることができた。不登校が私たち家族を成長させたのは間違いない。


ここからは、長期熟成した重めの下書き。詩2編。
1つ目は約6年前の状況をスマホの日記から取り出して記事の下書きに入れたのが3年前です。2つ目は3年前に振り返りながら書いたものになります。
3年前も、まだアップダウンの激しい時期で安心とは程遠い状態でした。
今はだいぶ状況が安定したので、公開してもいいかなという気持ちになりました。

〈詩〉夜明けの月

その子の日課は
空が白んできたころ
月におやすみなさいを言って
写真を撮ること

それから力なく
眠りにつく
ソファにうずくまり
毛布を顔まで引き上げ
闘いに疲れた青ざめた顔で

夜は怖い夢を見るから
だからずっと起きているの
夜は寂しいから
だからテレビは消さないでいいの
夜は長いから
だからスマホに時間をすすめてもらうの

夜には魔物がいるから
苦しくておかしくなりそうなの
自分の存在が消えそうになるから
怖くて怖くて死にそうなの
痛みを感じれば確かめられるから
どっか傷つけるしかないの

その子が
何を言っているのか
ほんとうは
よく解らなかったけれど
消えそうな声で
ほろほろと泣くから
やさしいふりをして
ただ背中に手をおいて
そのままでいた

腕のやわらかいところに
血がにじんでいる
爪を立てたらしい
悲しくて胸が痛くて
今が”普通”じゃないことだけ
奥のほうでひんやり直感した

太陽が高度を上げ
明るくなったころ
リビングのソファでは
青ざめて大人びた顔が
無心に眠りはじめる
幼な子の無垢を残して
正気と変わらぬ安らかさで
確かな体温をもって
傷だらけの腕を晒して

だいじょうぶ
今はここにいればいい
夜明けの月は
何度でも
朝を知らせてくれるんだ
消えたようでも
光に溶けたようでも
欠けては満ちて
これからも
かならず朝を知らせてくれるんだ
明日も
あさっても その次も
新しい朝が来る
光が照らす朝が来る
だいじょうぶ だいじょうぶ
だいじょうぶ だいじょうぶ


〈詩〉慟哭。始まりは冬。


慟哭は文字として存在するだけで
現実の私に嚙みついたりしない

その思考は間違いだった
全てがひっくり返った
惨めで無意味になった
あたりまえの日が懐かしくて
涙があふれた

これからどうなるの?
全部まちがいだったの?
私のせい?

ああ私はまた
私の心配をしている
そんなことどうでもいいのに
やっぱり失格だ

前ってどっちなんだろう?
わからない
考えたくない
動いたらいけない
また間違えてしまうから
誰か 誰か 
たすけて お願い

あの頃は、心のどこかで感情に溺れたいと
意図せずに企んでいたかもしれない
ナルシストみたいな弱すぎた私

固く握りしめていたものを
捨てられるようになるまで
気の遠くなるような時間が流れることを
まだ知らないでいた
知らなかったから、辛さを抱えられたのだろう
無知ゆえに希望を持っていたことが
弱い私の強みだったんだね







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