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小さな規模での生活と消費から“生きる事”を考える

1976年にE・F・シューマッハが著し、
物質至上主義と科学技術の巨大信仰へ警鐘を鳴らし、「小ささ」の素晴らしさを説いた、その内容と考えた事が書いてあります。
ざっくり言えば、なぜカネに苦しむのか、現在の経済によってなぜ自然破壊が起きてしまうのかについての内容です。



富を稼ぐことが豊かになる道だと信じて、自己の欲を追求してきた19世紀。
そのおかげで、ものは豊かになり経済が著しく成長した。
それに反して、疎外感や不安感をより感じる様になり、
我々が追い求めていた豊かさから遠のいてしまっている現代。

我々が目指していた豊かさとは何なのか。

この先どう進んでいくべきなのか、方向性を考えるきっかけとして、
本書の内容からまずは現代社会の問題の内容から触れていく。


資本主義は富を効率的に増やしていく事に長けているシステムである。
産業革命以降、資本主義は加速し、2021年の現在でも全世界は富を増やして成長し続けている。
より富を求めるための方法としては素晴らしいシステムだ。

だが資本主義が加速するほど、人々が富むほど、弊害が発生した。

その1つに「生産の問題」がある。
富むための源泉となる再生不可能な自然資本が激しい勢いで消費され続けている。
それによって、源泉の自然資本が枯渇するたけではなく、自然の回復力が弱まり、人間を含む生命そのものが危機に陥っている。

さらに自然の問題だけでなく、そこで働く人間の精神にも弊害が及んでいる。
機械による効率化によって、仕事を頭と手を使う創造的な行為から、単なる機械的な作業に変えてしまった。
それによって仕事が持っていた、人間を豊かにし活力を与える要素が失われてしまっている。

2つ目は、人間の「欲・執着」の増長である。
人間の欲や執着などの利己心を働かせることで、
目を見張る様なことや統計の数値が伸びても、
際限なき富を追求することで、ますます挫折感や疎外感、不安感などに襲われる様になる。

この様に生産システムと消費し富を追求する人間の欲が掛け合わさる事で、
再生不可能な自然資本の破壊や人間の理性の崩壊がおきている。

欲望が増長すると、意のままに動かせない外部への依存が深まり、生存のための心配が増えてくる。
そうなると、平和の礎を現代的な意味での繁栄を行き渡らせることで築くことは、できない。

ガンジーが説いたように、
大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貧欲は満たしてくれはしない。

それでも続いているこのシステムについて、
より具体的に生産の問題や人間の欲や執着を加速させている原因に触れてみる。


資本主義は、我々が当たり前の利用しており、ある種自然の一部となっているが、資本主義によって我々は強い利己心を煽られ、消費をしたり、富を追求している。そして色んな角度から消費を煽ることで、生産を増やそうとしている。

その原因として著者のシューマッハ氏は、
「労働価値を定量化した時、この重大な誤りをおかしている」と述べている。
労働価値とは、商品の価値はその商品を生産するために社会的に必要な労働時間によって決定されるというという理論であるが、
労働にフォーカスすることで、その資本の源泉となっている自然資本に対しては目を向けられず、また自然資本と工業製品を同等に扱える様になってしまったことで、今日驚くべき勢いで自然資本が使い捨てられている状況を気にせずに、
富の追求や消費がしやすくなってしまった。

この富の追求と消費の増加が「豊さ」を測る1つの指標にもなっている。
生活水準を測る場合、多くの消費する人が消費の少ない人よりも「豊か」である前提に立って、年間消費量を尺度にしている。
なので経済活動の唯一の目的は「消費」であり、消費者はより多く消費出来る状態を目指し、企業は適正規模の生産努力で消費を極大化しようとする。

これらのシステムによって、消費者はよりものを求め、それに対し企業は応え、新たな消費方法を提案し、それに消費者は反応するというループを繰り返すことで、
いつしか我々は、手段を尊び、より良い手段を追求する様になった。
なぜならそれが経済的である。言い換えるなら企業や消費者にとって利益(新しい刺激)があるからであるからだ。
その結果、手段の追求が目的の選択を一方向的に決めてしまう。
便利さ、質の高さ(それが経済的である)が故にその様に選択せざるを得ない状況を、我々は作り、我々の手から離れそれに動かされている。

この様に貧欲を煽るシステムの元、人間は貧欲を深めると同時に、その行動によって自然資本の消費や自然環境のバランスを破壊している。
無限に経済成長し続けないといけないこの資本主義のシステムがあるからこそ、それによる経済的なものの外にあるものが見えなくなっている。または無視せざるを得ない状況にしているからである。

物質や生活水準の向上の追求は、反対にそれが低下することをより恐れる様にしてしまっている。
人間は貧欲を深める一方で、社会について行けないことを恐るからこそ、気が滅入る仕事でも続け、ストレスも深めることになっている。

人類がまだ十分には成功を達成出来なかった間は、経済学や科学・技術から英知を締め出してもなんとかやってこれたが、大成功を収めた現在、精神や道徳上の心理の問題が全面に出てきている。

もはや、どこを目指し、どのくらい、何を追求しているのか分からなくなっている現代、本書ではメインで書かれていないものの、大きな「問い」として、以下を考えてみたい。


「本当に経済は成長し続けられるのか」
より良い生活を目指すために効率的なシステムとしての経済が、
経済を安定させ続けるための生活へと逆転している様に感じる。
有限な資源を源泉として資本を作り、消費を加速させ、富を増やしているが、有限な自然資源の上での際限なき成長は可能なのであろうか。
理論上では可能だとしても、それについていく環境や人間への負荷を考えると、どうなのであろうか。

「目指しているはずの『より豊か』とは何か」
ここに「十分」という観点は存在するのだろうか。
「より豊か」を目指す態度は、満足出来ないという貧欲を深めてしまう態度であるとすると、
豊かさをものや状況に求め過ぎず、内面的に作る方が良いと考えられるが、その観点とは何だろうか。
今、自分や社会を支配している貧欲や執着から解放されるには、どんな観点が必要なんだろうか。

「資本主義が貢献していることは何か」
これは本書中の内容に、
「過去25年間目覚ましく発達した経済学は、時代のもっとも緊急の課題にわずかな貢献しかしていない」
とフェルプス・ブラウン教授が王立経済学会で行った演説の中で述べた内容が書かれてあるが、
ものの質が向上し、便利・快適になる一方、自然資本と工業製品を経済によって同等に扱える様になり、破壊が加速しているため、両者を比較した際に、わずかな貢献しかしていないと発言したが、
果たして経済成長が善いことなのだろうか。
GDPの上昇は、現状、絶対的な善であるが、その結果引き起こされる事を考えるとこの定量的な指標を疑う余地はある。

0か100か、白か黒かの単純な話ではないからこそ、
良い塩梅を考えないといけないが、本書の中で、解決の方向性として述べられていた観点について触れてみる。


解決の方向性のポイントとして「永続性」が重要である。
生活様式の目標は永続性であり、それに伴い、生産様式も対応していかないといけない。

永続性の経済学は、それがどんなに巧みで、見た目に魅力があろうとも、
環境を汚染したり、社会構造や人間そのものの質を落とすような科学的・技術的「解決」は、無用である。
英知を閉め出すことをやめ、自らの中に取り入れなければならない。

そのためのシステムとして「仏教経済学」を勧めている。
つまり適正規模の消費で、人間の満足を最大化べきだということである。
仏教が悟りを目指し、自己にある欲や執着を捨てる「解脱」を目的としているからこそ、
この仏教経済学は、一定の目的を最小限の手段で達成するかを考えたシステムである。

そのため生活者(消費者)は正しい生活を目指し、生産者(資本家)は、コストカットのために人を奴隷化されてしまう機械を導入するのではなく、
技能と能力を拡張する道具を与えないといけない。
その道具の特徴として、安くて誰でも入手可能であり、小さな規模で応用でき、人間の創造力を発揮されられるものでなくてはならない。

また規模も、目的によって小さな構造のものも必要になる。
生産者や生活者(消費者)にとって、小さな理解の届く集団の中でこそ人間でありうるからこそ、数多くの小規模単位を扱える様な構造を考えないといけない。

そして最も大事、核心的なのが「教育」である。
そこではノウハウや知識よりも、人生をいかに生きるべきかの「観念」を伝えなくてはならない。
道具や適正な規模などの手段を持っていたとしても、考える道具としての「観念」なしでは生きられない。
観念によって、19世紀の神(欲・悪)の代わりとなる神(形而上学)を再構築しないといけない。

科学によってこれまでの神が解体され、「収斂する問題」という解決できる問題(科学等)を扱う様になった。これによって生み出された創作物は、他のものに転用されるが、これだけを相手にしていると人生には近づけない。
なぜなら情緒的な部分だけでなく、知性や道徳的性質など、人生を高める高次元の力はいっさい失われてしまうからからである。
また、我々が現在抱える問題は形而上学的な性質を持つ「拡散する問題」であるからこそ、治療法も形而上学的なものでないといけない。
人間の思考はその性質上、相対立するものを考えざるをえないという事であり、組織や管理やカネによっては根本解決出来ない。
そのために人間を導いて形而上学的混迷から脱出させるという意味での「教育」が重要になる。

富の追求では上手く行かなくなっている現代、
巨大信仰や手段の追求など拡大を目指すのではなく、小さな規模や適切な範囲などの「小ささ」の重要性も説いていかないといけない。


ーーーーーー


これまで述べてきた様に、
資本主義に変わるシステムでなくとも、安定して暮らせるシステムをどの様にして作るのかという問題が生まれています。
そして我々や社会は富の追求以外、何を目的にして生きていくべきなのか、
答えのない問いの必要性を認識したと共に、どの様に向き合っていけばいいのか分からない難問も生まれました。

それらに対峙すべく、現状の考えをまとめてみました。


まずはキーワードをいくつか挙げてみた。
・永続性
・脱経済成長
・新しい神(形而上学/新たな指標)

・共同体と規模と運用
 ・脱中央集権的な意思決定と透明性
 ・コラボレーション(notコントロール)
 ・生活可能
 ・共同、共有

・道具、方法
 ・創造性を拡張
 ・変幻自在、マルチ対応
 ・修復可能


(以下、個人の考えをつらつらと書いており、まとまりがないので、ご興味があればという感じです。。)


ここで一番重要だと考えたのは、
長く続いていく事である。永続性や今で持続可能性というのがキーワードになっている。
今生きている自然環境を悪化さずに、経済活動(生きていくために十分なものが手に入る状態)を続けられるにはどうすればいいかが、永続性を読み解くポイントになると考えた。

今、SDGsが話題に上がっているが、
本当に永続性、持続可能性を考えるのであれば、反消費的な姿勢が必要になる。
例え、燃費が良いエコな車を購入したり、自然に優しいものを使ったとしても、他と比べて優しいのであって、エコなものをたくさん購入したら、消費の促進になるため、50歩100歩である。

脱経済成長を図ったところで、現状の日本のクオリティだと、生活者は十分な品質の商品を受け取れる。むしろ差別化のために行われる過剰なサービスが無くなる事で、人間がそれの奴隷になるのを防ぐ事も出来るのではないかと思う。(質が良過ぎて依存状態になり、それ無しでは生きれない、生きづらくなるのを防げる)

脱経済成長を掲げた時に問題になるのが3点。


まずは企業(資本家)や生産者側の構造が大きく変わってしまう。
具体的には、企業は存続出来るのか、人は労働するのかという点。
企業は利潤の追求、最大化のために存在するが、それは永続性とは反するとなった場合、諸々の規模を大きくする必要性が無くなる。
その結果、企業が縮小・分散に至る様なイメージがある。
イメージでは、昭和の様な色んなメーカーや銀行等が存在している統合される前の状態。
そうなると今までと同じ品質は保たれるのかが疑問になる。
具体的には、この方向性は質素化へ向かっていくと思うが、規模縮小された際に、品質を保つための規模が確保出来るのか疑問である。

ここに対しての明確なものは無いものの、どこまで品質を求めるのか(下げても問題ない、気付かない)は考える余地はある。精神面的な不安も大きいと思う。
また品質が許容範囲より下がった場合、各地域によって対応、工夫が生まれる可能性もある。
企業による質の担保ではなく、生活者(地域の生産者)による担保へと、ローカル化していく可能性がある。(希望的観測が大きいが...)

そうなると2つ目の問題として、
その企業が雇っていた労働者もそんなに必要がなくなるが、地域の生産者へと変化していくのであれば、良いのではないのかという楽観的な考えがある。
1つの稼ぎ口からの収入は減るものの、各地域のミクロな課題を解決する事で、いくつかの稼ぎ口を作れる可能性がある。
この様にして仕事が労働から営みへと、稼ぐ手段からより良い地域、生活にしていくものになるのではないのかと考えた。
生産者・労働者と生活者・消費者としての自分の距離が近づく様にシフトしていければ良いと考えている。

小さな理解の届く集団の中でこそ人間としてあれるのだとしたら、
この自分の行為が自分や周りの人に反映され、自分たちで変えていける様な、
行為と結果の距離が近い方が精神衛生上良いのではないのか。少なくとも現代的な労働からの病いを解決出来る可能性がある。

そして最大化の問題は、
経済成長、更なる品質向上、豪華絢爛等の唯物主義に変わる考え方、ある種の教義をどう作るのかであると思う。
つまり、カネ以外に目指す?べきものを作らないといけない。
脱経済成長とはそういう事であると思う。

我々はカネで生活が変わるのを実感して、かつそれが刺激的だからこそ、そこを求めてしまう。
そこへの欲求があるのであり、他に魅力的な?ものが無ければ、自然と傾いていってしまう。

ある意味この教義は、カネへの欲求とのバランスを保つためのものになる。
カネを求めるのも大事だと現状は考えている。
それによって、過去何100年と抱えていた飢餓・病・天災に対して、対応出来る様になっているから。

その時にカネと同じくらいの魅力あるもの、皆納得するものは何か。
それは抽象的にくくると1つになるかもしれないが、多分それぞれの共同体(コミュニティ)毎で、異なってくる様に思える。
そして唯物論の反対である、精神的なもの様な気がする。

その例として、過去には神や仏が存在していた。
(科学によって、その存在が否定せざるを得なくなったが)
その代わりとなるものが必要である。

ヒントとしては拡張家族やステップファミリーなど血が繋がっていないが、家族や仲間と感じる様な、自分たちの繋がりに神を宿す方法。
または新たな絶対神を創るか、何かしらのお祭り・祝祭を持ち、信じる事で、
カネの外側、不経済的だけど、目指したいもの、納得出来るものを創れるのではないかと思う。

でもこの問題として、
これは各共同体に分散した後の話になっているらからこそ、現状には適応しずらい気がした。

カネの追求が加速している現代社会を解体、分散させるには、どんな教義がいいのだろうか考えていかないといけない。
少なくとも永続性(持続可能性・SDGs)という教義では弱い。
カネ側が利用し、表面上の社会貢献を口実に、生産消費を拡大している。
あくまでも、意識付け程度に過ぎないが、でもその辺りから発見していければ良いと思う。

またその他にも、その地域で生活する、地域運営上での問題もある。
閉じていく事による負の同調圧力や、特定の人に権力が集中してしまう問題があると思う。
これらに対して人の意思で解決しようとすると、対立などが生まれ、かえって悪化させる可能性があるからこそ、みんな使えるシステムが必要になると思う。

そのシステムで解決出来る問題は、
民主主義的に決めれる問題もあれば、拡散する問題で多数決では決められない問題もある。
そのため丸く収まるという事はありえないため、地域独自の納得度の高い意思決定を考えないといけない。
これらとても抽象的な話で恐縮なのですが、この運営のポイントとし、
誰かのコントロールで解決するのではなく、相反するものを止揚させるコラボレーションが大事だと考えている。
(長期的にはコントロールでの制御では、変化が大きい時代では立ち行かなくなる。)

その中では「共」的な、双方向的な考えが大事なる。
というか個という一方向的な考えでは立ち行かなくなっているのが現状だからこそ。

またこれらを解決する道具として、
スマホ、インターネットが土台として考えられる。
今まで質を良くするために規模拡張されていたが、そこで必要だったものがインターネットによって繋がる事で解決しやすくなり、
さらにスマホによって常時接続が可能になった事で、問題解決までの距離が短くなった。

規模が小さくなってもスマホやインターネット、さらには応用したテクノロジーによって、
地域や人間等の差を埋めやすく、公平性が保ちやすくなっている。
(落合陽一氏の「デジタルネイチャー」の思想にも近いと思う)


ーーーーーー


ここまで考えているうちに思ったのは、
完全なものを創るよりも、バランスを保てるものを作らないといけないという事。

シーソーの片側にあるカネを比重が高すぎる現在、
フラットにするために必要ものを探す上で大事なのは、カネに内在する「欲・執着」から解脱可能な事。

個人的には、その欲の中でもアート的な良い作品を作りたい欲は、
カネ・経済的なものの外にあると思うので、良いと思う。
(多分その欲を追求した先には、虚無を自覚し、死を選択するケースもあるが、そこは天才の領域だと思う…)

解脱や正しい生活(八正道)に向けて、考えていきたい。


※本書では上述の内容以外に、自然資源やエネルギー問題・原発問題等の記述があったものの、今回はそれには触れていません。

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