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贈与論から考える #1

買ってから一年半経つがなかなか読めず、読んでみたら全く読み進まないので、noteに書いていけば、少しずつ読そうだと思いやってみる。多分、雑記になりそう。

ここから人の繋がりとか、相手への贈与の意味とか、昔からある贈与について何か知って、生かせてたらなと思って読んでいます。

今回は以前読んでいた分を含めて60ページまで。

▶︎ 概要

贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代ローマ、ヒンドゥー等の古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する「ポトラッチ」など、その全体的社会的性格に迫る。「トラキア人における古代的な契約形態」「ギフト、ギフト」の二篇と、詳しい注を付す。

*何言っているか理解しづらいけど、自分的には、
「昔の民族同士の贈与形態やその背景を追っている」と解釈しています。

▶︎ ピックアップ&雑記

集団と集団は、しばしば永続的な連盟関係によって、そしてとりわけ結婚を通じて、相互的にあ義務を負うのである。(p,14)

これから始まる「贈与」の話はどうやら心温まる話よりも「義務」の話を中心に展開していくようだ。

この文章の前のページに意訳ですが、
”諸社会では、契約にしろ交換にしろ、純粋な経済では成り立ってない”
と、個人と個人ではなく、集団同士が義務を負い合っていると。
持ちつ持たれずの関係があると言っています。

*この給付体系をここでは「ポトラッチ」と呼んでいる。

ほとんどの場合、プレゼントを純粋に無償で贈与するという装いをまとっていること。にも関わらず、その贈与の恩恵に浴した人には、もらった物と等価のものに、さらに何かを上乗せしてお返しする事が義務付けられている。(p,15)

現代的に言えば、高利子を伴うお返しが戻ってくるような感じだと。
でもこのお互いの集団は結ばれ合っているが、一方で競合関係にもあり争いあう事もあると、何とも理不尽な。宅急便があったら悲惨な事になっていそう。
とは言いつつも、この人たちの受け取った時の気持ちってどんな感じなのだろうか。結局、相手からからも返ってくるからこそ、好意的に受け取るのだろうか。
またよく贈与し合う関係性の時のお返しは何を送るのだろうか。
現代ならお返しの品の相場ってだいたい決まっている様に思うけど、全てにおいて一から考えていたのだろうか。

無償で物を贈与したり、借りた物に利子を上乗せして返したり、利子つきでものを貸したりする事によって、物と人が混然一体となって絶え間なく循環するのだ。(p,40)

ゲルマン系の言語で、「ギフト」という単語には、”贈り物”と”毒”という2つの意味があるそうです。
人と人を結び付ける行為であるからこそ、その物に毒がなくても毒になりうる可能性はあるが、その反面それを分かち合った者同士の関係は、永遠に結び交わされると。
この時代そんなにものに溢れていないと思うからこそ、だいたい決まった物を返している様な気がするからこそ、その物の役割とは別の意味ってのが存在するのではないのかとか思った。
ちょっと違うけど、別の意味を持っているという意味で「お赤飯」とか、この時はこうとかパターンがあったのではないのか。
この時代、返す物の質が大事なのか、洒落が大事なのか、何を意識していたのだろうか。

あらゆる種類のもの制度が、同時に、かつ一挙に表出されている。それは、宗教的・法的・倫理的・政治的・家族関係に関わる・経済的な制度であり、さらにはこれらの事象は審美的現象にも行き着き、社会形態的現象として現れたりする。(やや意訳)(p,59)

あらゆる事が「贈与」に関連しているというか、贈与が色んな意味を同時に持たせているからこそ、文明となるほど発展したんだと。
どうやってこの様に複雑になったのかは、追々わかるのかなと思うが、少なくとも繋がる事が生きる事と同等だという事かもしれない。
反対に、繋がれなかった、繋がらなかった人々は、何らかの事情で消えてしまった闇が見える。

この前のページに、
”信頼する事が出来ない人にも、心の裏腹とは別に、微笑みかけて、贈り物も返さないといけない”
という何か考えてしまう詩節が載ってあった。

贈与には、表面的な温かさと、その裏側に闇が隠されている。
完全に人なのかもしくは贈与なのか、優しく支配されている。
言う事なりルール守ったら助けるよ、でも言う事聞かないと、知らないよ。こわい。
そんな思いがあり、まだ経済発展していなかったからこそ、お互いの弱みを握られていた社会なのかなと思う。


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