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贈与論から考える #2

本書はざっくり読むのには全く適していない様に思うが、意外とちゃんと細かく読んでいると、本書は理解できるからこそ「贈与」の体系とか、そこに存在する人々の感情とかが意外と分かりやすくなっている。
また本書を読んでいるとありがたくも、本書の方向性が明確に書いてあったのでそれに沿って見て考えていきます。

▶︎ 前回

前回は、この「贈与」の話はどうやら心温まる話よりも「義務」の話を中心に展開していくのではないかと言う事が分かった。
今日はp,60~p,108まで。

▶︎ 概要

贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代ローマ、ヒンドゥー等の古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する「ポトラッチ」など、その全体的社会的性格に迫る。「トラキア人における古代的な契約形態」「ギフト、ギフト」の二篇と、詳しい注を付す。

*何言っているか理解しづらいけど、自分的には、
「昔の民族同士の贈与形態やその背景を追っている」と解釈しています。

*集団間での給付体系をここでは「ポトラッチ」と呼んでいる。

▶︎ 本書の論の方向性

①法規範と利得追求に関わるどの様な規則があるから、贈り物を受け取るとお返しをする義務が生じるのか。
②贈与される物にはどの様な力があるのか
③受け手はそれに対して、お返しをする様に仕向けられているのだろうか

▶︎ ピックアップ&雑記

一クラン全体がクラン全成員のために、クランが所有する全てを賭し、クランの首長を仲立ちとして関係を取り結んでいる。この意味でそこには全体的給付が存在する。だが、首長によってなされるこの給付においては、競覇的な様相が極めて顕著である。(p,73)

またこの続きの文章で、
ポトラッチという名称を、この種の制度に限定して用いる事を提案する。これをまた慎を期し、より正確を期するならば、「競覇型の全体的給付」と呼ぶ事にしよう。
とあるが、やっぱり資本主義が確立する以前の話らしいので、お互いの安全を担保するのが、暴力的に見える「贈与」しかないのかなと。

以前サピエンス全史「想像上の秩序」について書いたが、貨幣がないと無条件に相手を信頼出来ないからこそ、暴力的にしろ「贈与」という現代の貨幣の変わりがいたんだなと。

この送り返す義務を果たさないと、「マナ」や権威を失うハメになる。権威というのはそれ自体、富のお守りであり、富の源泉であるので、権威が失われると、富を生み守るものも失われてしまうのである。(p,82)
*マナ...超自然的、一種の魔力の様なもの

本書の研究は少なくとも18世紀以前なので、魔術化している社会なので、そこでは宗教>貨幣・科学なんだと。
この話に出てくる宗教がまだよく分からないのですが、対象がヨーロッパ系なのでキリストとかユダヤ、イスラムとかなのかなと思うが、これら思って行っている事って、東洋的なのでは?
一神教というよりアミニズムなのではと思うが、これはどうなのであろうか。
文化というものはグローバル化が進むに連れて混じり合っていくからこそ、18世紀に東洋思想があったりするのではないかと思ったけど、そこら辺どうなんだろうか。

ハウとは (中略) タオガン(贈り物的なの)霊なのです。(p,91~92)

つまりこの様な贈与体系は、ただのお互いの関係性維持のための法規範と利得追求だけではないと。
贈ったモノには精霊的なのがいて、それらは戻りたがっているからこそ、受け取った人は贈ったにちゃんと返さないと大変な事になるという事だ、死ぬかもしれないと。

多分これは、確かにある意味「ハウ」は存在すると言えるだろう。そして死ぬと言えるだろう。
なぜなら人々が「ハウ」を信じているからです。
だからこそ、罰を受けたり、死んだりするのは、人の怨念と言えばいいのでしょうか。
恨みを買ったら、その恨みは周り回って帰ってくるという、この世界は繋がりを持っているのです。
まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」だと。

それを強固にするために、宗教的なのを使うと思うのですが、やっぱり”見えない存在”が効力を発揮していると思うと、人間勝手に恐怖心を持つものですね。

(中略)宗教上の役職であれ、位階であれ、全ての物事は、受け渡しとお返しの対象となるという事だ。(p,107)

本書を読んでいると受け取る事が、とて心の重荷になる様な感じで、決して気軽にサンキューと言えるものではない様な気がするんだけど、当時の現地の人はどう思っているんだろか。

贈る義務、受け取る義務、返す義務がある中で、”マケヘル”という首長は「食べ物」を受け取る事を拒絶するのが常であったと。
その言い分としては、
「食べ物は私の背中を追って気はしないもの」と首長に気付いた村人が贈ろうと懇願しても、彼らに危険を及ぼしてしまうから
と断っていたと。

もう一段階深掘らないと理解しきれないが、まあ彼らを思って、そして自分の身を守るためという事だが、意外と規則的なのは権力者であれば、解釈を変える事が出来るのかなと思った。
多分それは他の人が納得すれば良い話であり、納得すれば他の人からの怨念をもらわずに済むから、解釈を変えられるのかと。

それぞれ正義はあっても正しさという唯一無二的なのは無さそうなのかなと。

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