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ロロ「BGM」

誰もが物足りなさを抱えながら心地よく過ごす、そんな十数年に一度の冷夏のようだった。暑くない夏は記録にも記憶からも忘れられていくかもしれない。それでも思い出は言葉や風、音、風景になって流れ続けていく。
映像で何度も巡った初演と重ねながら、再会を交わした旅
出会い生ビビッドポップ大きな感情→別れ死淡色マッド繊細な感情へ
喜悲の大きな感情と異なる怒りや戸惑いといった小さな感情が大切に扱われた印象。
彼らの再生はきっと毎年繰り返されてきた。
月日の経過と、死と向き合う2人の変化によって形を変えて。記憶は忘れていくけれど、同じ旅を繰り返すことで、彼らはあったことを確かめ続ける。
6年の旅路が、ちゃんとさみしさの似合う夏にたどりつく。


5月8、9日、ロロの「BGM」を観劇した。
ゲイカップルの男子大学生2人(BBQ)と、失恋した女子大学生(午前二時)の3人が傷心旅行として、東京から宮城へと向かった2006年。
2人が同じ旅路を辿りながら、午前2時の結婚式へ向かう2016年。
2つの旅路が重なりながら、出会う愉快な仲間たちと共に走るロードムービー。


ロロの作品で唯一DVD化されている作品。
初演は2017年のことだったらしい。ぼくは2019年ごろにDVDを購入し、何度も家で観たっけな。この作品をきっかけに自分で演劇をつくることにもなったし、東北へ旅したりもした。
もちろん楽しみにしていた再演だが、いい意味で期待を裏切られた。
その変容に戸惑いながらも、変わることを許容する大きな愛を感じた。
そして、劇場で今作を通じた友人と数年ぶりに再会した。
旅をしていれば、またきっとどこかで会える。そんな力を感じたのだった。



再演の印象は
「誰もが物足りなさを抱えながら心地よく過ごす、そんな十数年に一度の冷夏」。
対して初演は
「眩しさと暑さが永遠に続くと信じられた宝物の夏休み」といったところだろうか。
ほとんどセリフの変更はないまでも、演出と出演者の変更によってもたらされた本作は、一作としての素晴らしさに留まらず、初演により厚みを与え、二作セットとしての完成度を数倍にも膨らませる効果をもたらしていた。
「再演を前提につくった作品」という三浦さんの言葉通り、こんなにも効果的な再演を試みた劇作を他に知らない。(未知なだけかもしれないが、詳しくは後述したい)


再演は、全体的に初演の底のない明るさが失われた印象を受ける。
初演は、それほどまでに「キラキラ」「祝祭」「眩しさ」といった明るい光を放った作品だった。
象徴するのは、音楽の違いだろう。初演で担当した江本祐介さんは、渋谷系を感じさせるポップなミュージシャンだ。映画やドラマでも三浦さんとのタッグが多く、ロロと共通する世界観を描く印象がある。
再演で担当したのはサニーデイ・サービスの曽我部恵一さん。こちらもらしさを携えて初演とは異なる大きな加味を作品に与えていた。
この音楽が用いられるオープニングとミラーボールのシーン。この2つのシーンがまた、二作の違いを象徴するようだが、言葉にするのは困難と判断した。

作品の重心は、出会いから別れへシフトされたように見えた。
劇中には、泡之助とBBQの旅路で出会う愉快な人物たち?が多く出てくる。
半信半疑を目指す占い師や、巻貝から聞こえる青春18きっぷのキャッチコピー
を集める小学生、地中にいる恐竜の骨や、ハードオフに売られた亡くなった彼氏の遺品を買い集める女性。その個性的すぎる人物像からも、その出会い方が、どんなだろうかと想像するだけで面白く思える。
初演ではそんなマンガチックな出会いが、楽しさと面白さを余すところなく発揮された。だが再演では、楽しさと面白さは影を潜めた。いや意図的に潜まされたようにも思える。
対して初演では、大きく扱われなかった別れにフォーカスが当たった。
最も印象的なのは、MC聞こえると繭子さんの別れのシーン。
「またまたまたまたまた」と照れ隠しのように別れを告げる、MC聞こえるのセリフには変更はない。その後、今回の演出として多く用いられた、四角い輪郭だけが形どられた枠(車や額縁などにも用いられる)が、袖から出てくる。聞こえるは枠を扉のように見立て、扉の外へと出ていく。その様子は映画「すずめの戸締り」を思わせる。扉の内と外で、世界を隔て、現実とは異なる世界へ行くことをより強調したように見えた。
さらに再演に際し、セリフの変更が大きく2点された。一つはドモホルンリンクルが失った彼氏が「震災」によって死んだことが明言されたこと。
いわき、仙台、石巻、松島と東北各地を巡る旅路や、亡くなったことを思わせるMC聞こえるの存在から初演にも、東日本大震災を感じる匂いはあった。だが明言するセリフや描写はなかった。今回「震災」という言葉が追加された。それ以上に、舞台上には終始、旅路を楽しむと共生できる「さみしさ」が漂うのだ。

生と死。
東日本大震災を扱う上では、切っても切れないテーマとなる。
ただロロの作品では、生と死が二分するものではない印象を受ける。
登場人物が舞台から姿をなくすことは、必ずしも死を示さない。
「はなればなれたち」では、淋しいが風景となったことにより人体を失い、周囲からはいなくなったと認識される。死を感じさせつつも、死を明らかにしない作法のようである。そして、観客がどちらかと決めつけるのは、想像の範囲を狭めるようで、得策でないと考える。

今回改めて印象を受けたのは、午前二時の不在だ。
仙台で結婚式を開くという午前二時。そこへ車で向かう二人の旧友。といった前提がある物語だが、午前二時も震災の被災者であると考えることもできる。
ラストシーン。長い旅を終えた二人は、大きな喪失感を持って、松島の海岸線を見つめている。その喪失感は、結婚式の時間を間違えて出席ができなかったこと、旅の目的が果たされなかったこと、以上の大きさのように映る。もっと大きなさみしさを抱えて二人は口にする。「おめでとう午前二時」と。
午前二時が亡くなったと仮定する。二人は三人の大きな思い出であった傷心旅行を、結婚という最高の形のフィナーレを用意する。だが現実には、結婚式は開かれない。結婚式のない仙台へ着いた二人は、遅刻するという嘘で出席をかなわないことにする。その後最後、もう一度訪れる松島で、海に向かって「おめでとう」と語りかける。その旅路全てが弔いのようである。


初演を観てからBGMのテーマは「再生」であるように思っていた。
東日本大震災の匂いを感じる東北の街を巡って、かつての旅の記憶を再生する。それはかつて居た人との記憶であり、かつてあった場所の再生を祈る物語だと。復興という文字で括るには、短すぎる。
再生するのは、過去にあった楽しい思い出たちだった。

再演で思い出は、かつての楽しさを手放して、等身大の感情を手に入れた。
それは、時間の経過を思わせる。
一つはロロという劇団の年齢的な変化。初演時にあった20代の明るさは30代のものへと移った。
もう一つは、震災からの時間の経過。すなわち遺族や当事者が震災と向き合ってきた心情の変化ととれる。震災や死と直面すれば、先ずはとてつもない大きな悲しみと向き合うことになる。それでも残された人は、日常へと戻っていかねばならない。その中で悲しみは小さく薄れていくこともあるだろう。あるいは大きさや薄さでない尺度で形を変える。時に忘れていくこともあるだろう。
改めて考える。初演の底のない明るさとは、あの時期の悲しさに向き合うための明るさだったのではないだろうか。舞台全体で登場人物誰もが、明るく旅して、歌って踊った。対して時を経た再演は、明るさや全体の大きな感情は薄れ、個々の怒りや戸惑いの感情もしっかりと存在するよう変化が描かれた。



改めて思い返す。
「再演を前提としてつくった作品」。三浦さんはBGMをこのように語っていた。震災と向き合う心情を初演と再演の二つで、現実的な時の経過をもって描くことを試みた作品。このように受け取れる。であるならば再演ではなく、二作セットで完成する作品ともなる。
今作だけが唯一DVD化されているのも不思議だった。再演へたどる道が用意された、あるいは再演を観た人が初演へ引き返す切符なのか。
この秀逸な計画性の上、数ヵ年をかけた劇作に、慄くしかなかった。


結婚式へと車を走らせながら向かう二人のシーン。
背景に映るのは、淡色の山と空。
道路に映るのは、初演のパッケージを思わせるビビッド色の建物の並ぶ街並み。やっぱりあのシーンが印象的だった。



印象に残ったセリフは
セリフでないのだけれど、
ミラーボールのシーンで踊りに入る直前に流れる「愛と言え」の歌詞。
「夢は見るものではなくなってしまって
真昼まにぼくは死んでしまったような気分だ
お元気ですか?こちらはまあまあです」


自由に書きすぎてしまった。
また「BGM」に再会できるよう。旅に出ていよう。


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