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普通を演じる

普通の人ってなんだろうか。
それを考えることがよくある。

僕は普通の人というのをあまり見たことがない。けれど僕が普通でないことはよくわかっている。
普通でありたくないと思う自分と、はみ出すのが怖い自分がいる。普通なんていう価値のない無個性な人間ではありたくないけれど、外に出れば普通であることが要求される。普通でない人はだいたい不審者である。

だから僕は普通のフリをする。
普通ってなんだろうか。わからない。
でもとにかく周りの人と合わせよう。目立たないようにしよう。自分の行動はおかしいと思われていないだろうか。ちゃんと普通の人を演じられているだろうかと心配になる。

とにかく普通を装う。なんでもないフリをする。でも普通の人のフリをすればするほどおかしくなっていく。挙動不審みたいになっていく。自分がなにをしているのかだんだんわからなくなっていく。自分の体が言うことを聞かない。もうそのときには心の中がぐちゃぐちゃになっていて正常な判断ができない。普通じゃない。周りの人から変な人だと思われてるのかな。それくらいならいいけど、気持ち悪がられてないかな。不安でいっぱいになって何も考えられなくなってくる。目の前のものが見えなくなっていく。自分はどうするのが正解なんだろうか。怖くて仕方がない。

最近、普通の人って実はそんなに多数派ではないのかなと考えている。
たしかに、色々な人がいる中では普通の人の人口が多いのだと思う。でもそれは比較すれば多いというだけで、多数派とは意味が違う。
例えばAタイプというグループに属する人が普通の人だとする。Aタイプは全体の一割である。B〜Zタイプはそれぞれが一割未満である。この場合、普通の人ではない人が九割いるにも関わらず、タイプ別で見ると普通の人が最も多くなってしまう。きっと現代社会はそういうふうになってしまっているのだと思う。

普通の人は多数派ではない。けれど、割合では最も多い。僕はそんな多数派ではない普通の人達に支配されているような気がしてならない。

ああ、今日も普通にはなれなかった。普通になれないのが怖い。だけれど普通になって、平凡で無個性な人間になるのも怖い。
孤独を捨てるか自分らしさを捨てるか。もし僕が自分らしさを捨てたとしても普通にはなれないと思う。後に残るのは無限に広がる孤独だけである。やっぱり僕は普通になんてなれないのだ。

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