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もっとステキに、もっとしあわせに

「もっと何かを得たい。
もっと素敵な未来にしたい。」

そんな思いに駆り立てられる。
私がいるのに気がつきます。

「何か」というのは
物なのかもしれませし
友達なのかもしれません
知識なのかもしれないし
経験なのかもしれない

とにかく少しでも
マシな私になろうとしている私がいます。

この前へ前へとせり出す私
本当は今ここにはない未来へ入り込もうとする私

意欲的に成長しようとする私

そんな私が好きで
そんな私が私を救ってくれると
思っていました。

でもね
本当に起きていたことは
そんな私は
今ここにいる私を否定し続けているということ。

このままではダメだから
もっと何かを得なくてはいけない
もっと成長しなければなならないと
私を苦しめていたということ。

私を助けようと
私を素敵にしようと
つまり
私を幸せにしようとやっていたことが

実は
私を苦しめるというループから
抜けられないようにしていた。という
衝撃的な気づきでした。


それは私個人的なことではなくて
私たちみんなが駆り立てられてる
そんな気がします。

いつかきっと
あなたはステキに幸せになれますよ。という

掴めそうで掴めない
「いつかきっと」を追いかけて
なんとなく良くなっている感じを得つつ
ずっと埋められない感じを持ち続けて
苦しくなっているなあと感じます。

じゃあ、どうすればいいのですか?と

思われるかもしれません。

まずは気づくことです。

何かを得ようとする衝動に気づくこと。

例えば
何気なくスマホを手に取り見ているとき
私は何かを得ようとしています。
いまではないどこかへ行こうとしています。

そんな私に気づきます。
気づいたとき
スマホを見ている私から離れて
そんな私を観察している存在になります。

その観察しているほうへ
私の意識を移動しましょう。

舞台で演技をしている俳優ではなくて
舞台を観ている観客になる

ゆったりと気持ちいいシートに座って
起きているストーリーを眺めてみる

すると
前に前に、もっともっと。と
思っていた時には
全く見えていなかったものが
見えて、聞こえて、感じて
分かるようになります。

私がいまここに寛ぐ
つまり私の身体に寛ぐと
ずっと求めていた幸せに
私はずっと浸かっていたんだ!
分かります。

同時に

その「私」というのは
思考や感情や過去や思い込みという
カタチないもので創られていて
「私」という確固としたものはいない。

ただ現実という舞台で
繰り広げられるストーリーの役を演じているだけ。

ということに気づいていくと
苦しみが消えていき
ただ安らぎのなかに戻っていきます。






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