見出し画像

メーデイアの眠り (4)

「そう、明日の日曜日が父親参観日なの。お父さんが来るんだよ」

「それなら、これはいいチャンスだわ、明奈ちゃん」

「チャンス?」

「そう、これはまたとないいいチャンスだわ。明奈ちゃん、いい?これも二人だけの秘密よ。よーく聞いてちょうだい。あなたは賢いから、分かっていると思うけど?」

「秘密は、絶対ほかの人にはしゃべりません、でしょ?なあに?」

「その日、お父さんをここに連れてきてちょうだい」

「でもおねえちゃん、お母さんも来るかもしれないし、ゆう君だって一緒に帰るかもしれないし、大丈夫かなあ?」

「大丈夫よ!自信を持っていれば、そんなの思うようになるから!」

「おねえちゃんはすごいね」

「ねえ、それじゃあムエルテ様にお祈りしようか」

「はい!」

 いつもと同じ昼下がりの午後、私たちはいつもと同じようにムエルテ様にお祈りして、いつもと同じように気だるげな空気の中眠たくなりながら話した。それがおねえちゃんの家で過ごす最後の午後になることなんて知りもせず、私はずいぶんと悠長に甘いルビー色の紫蘇ジュースの氷が溶けるのを眺めながら、夢見る少女を気取っていた。自然のものとは思えない様などぎついそのピンクを眺めながら、私はいいことを思いついたのでとてもうれしくなって、わくわくした。これならお母さんを説得できる。私はおねえちゃんをピンク色越しに眺めて言った。

「じゃあ、明日終わったらお父さんを連れてくる。絶対にうまくいく気がしてきた!」

「ふふ。明奈ちゃんは、やっぱり賢いのね。自分で何でも解決しちゃう」

「おねえちゃんの子供ですから」

 家に帰るとお母さんが夕飯の支度をしているところだった。弟はテレビゲームに夢中だ。私はちょっと考えて、キッチンにいるお母さんを眺めた。お母さんの後姿はせわしなく動き回り、フライパンと菜箸のぶつかり合う音と、何かの焼ける香ばしいにおいが辺りに立ち込めていた。チャーハンは忙しい時に決まってお母さんが作るものの一つだ。機嫌はあまりよくないと思った。そういう時の音の種類だと思った。私の思い付きは、こういう時に発揮できる。

「お母さん」

「あら、帰ってたの?うがい手洗いは、ちゃんとしたの?」

「うん」

「ずいぶん遅かったのね。友達の家にでも行ってたの?」

「うん」

「ゆう君に、ゲームやめるように言って」

「お母さん」

「何、今忙しいんだから」

「明日の父親参観日、お母さんも来る?」

「明日だった?」

「そうだよ。お父さんは来るんでしょう?」

「そうね、行くわよ」

「お母さんも来る?」

「父親参観日なのよね?」

「うん。来てよ」

「来てほしいの?」

「来て」

「でもねえ、お父さんが行くし、お母さんはいろいろ用事があるし、ああいうところ苦手なのよね、私」

「来ないの?」

「明日はお父さんだけでいいわよ」

 うまくいった、と思った。私はちょっとふてくされた顔をして、キッチンに背を向けた。心の中で、ムエルテ様にありがとうございました、とささやいた。お母さんは、私がして欲しいという事とよく反対のことをする。幼い頃は随分とそれに振り回されたけれど、私だって成長とともに学習する。私だって、お母さんの意味不明の意地悪に泣いてばかりはいられない。おねえちゃんの為なら尚更だ。明日はお父さんだけ学校に来る。だからあとは弟をどうすればいいかを考えるだけだ。これはちょっと骨が折れるけれど、色々考えた挙句、いいなと思える方法が見つかった。私はまずいチャーハンを食べながら、弟の顔を眺めた。一つ違いの弟は頭がよくて、要領もよい。私は地味で、のろまで、目立たない。お母さんは弟が大好きだ。時にその愛情表現は露骨で、小さい頃はまじめに傷ついた。私はいつも拾われてきた子供だと思っていた。私は弟が憎たらしかった。だけど、憎たらしいは、おねえちゃんに愛される事で、いつしか無関心へと変化していった。私は弟をどうでもいい存在と感じ始めていた。行儀の悪い弟は、チャーハンを食べながら、ゲームをしていた。そんな彼をお母さんは咎めることもせず、黙々とチャーハンを食べていた。弟の横顔は、はっとするほど整っていて、きれいだな、と思った。まじまじと見ている自分に気づいて、慌てて目をそらした。弟はお母さんにも、お父さんにも似ていないと思った。おねえちゃんにも似ていない。もしかしたら、弟が拾われてきた子で、お母さんはそれを隠すために私を無下に扱っているのかもしれないと思った。そう思うと優越感が私を支配しだして、全部許せる気がした。この世の中は、案外自分が思っている以上にいいところなのかもしれない、なんて思えた。

 お父さんは土曜日も仕事で、日曜日だけが休みだ。毎日私と弟が寝てしまった後に帰ってくる。お父さんは優しいけれど、遠い人だった。側にいるはずなのに、なかなか会えない人。だから、ちょっとかしこまってしまう。それが私の不器用さなんだと思う。弟はお父さんに甘えるのがうまかったし、お父さんも弟が大好きだ。ゲームだって、よく一緒にやっていた。日曜日は、私にとってちょっと悲しい日だった。だから、何もやる事がないときは、こっそりおねえちゃんのうちに行った。私はもしおねえちゃんがいなかったら、どうしてたんだろうかと不安になった。きっと世界は真っ暗で、私は私ではない別の人間だったのかもしれない。

 熱いお風呂に入って、目覚まし時計をセットして、明日のことに不安と期待を感じながら、ベッドに入った。ムエルテ様、どうかうまくいきますように。明日の朝は、どうか私に優しくして下さいますように。そして、おねえちゃんが幸せになりますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?