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異次元が存在するとき・抗議の自傷

意味のない物事が時々連想ゲームのようにどんどんと繋がっていき、一種の大きな物語をなす。そういう不思議な出来事を人は考えすぎだと思うかもしれないし、すごいと思うかもしれない。私は大抵すごい不思議、面白い!と思ってしまう方なので、あらゆる物事には意味があって、偶然ではないって考えてしまう方だ。Netflixで話題になっていたOkjaという映画を観たのは六月の終り頃だったと思う。その映画の中で、一瞬だけ墓地が映って消えるシーンがあった。それは確かに見覚えのある墓地で、その淡い黄昏色に染まった空間は一種の懐かしさで私に訴え掛けてきた。ねえ、その出会いのきっかけが死だったとしたら、魂は存在して、その未知なるエネルギーが波長の合う、共振できる人間の魂に訴えかけてきてる、って事はないかしら?そんなことを感じさせる一瞬の出来事だった。あの墓地をみたのは、一人の人間の自殺がきっかけだった。Daul Kim、韓国のスーパーモデルが自殺してその命を絶ったのは2009年の11月の事だ。その人の事は知らなかったけれど、なぜか引き寄せられるように彼女の事をめぐっていくうちに、生前綴っていた「I like to fork myself」-自分にフォークを突き刺したい、という衝撃的なタイトルのブログを発見した。そのブログを読み進めていくうちに、ニューヨークのコーニーアイランドを訪れた帰り、美しい墓地を発見して、彼女はもし自分が死んだらそこに埋められたい、と切実に願う一節に目が留まった。その墓地を写真に収めていた彼女。その墓地が脳裏に浮かんで、確認してみたくなって再び彼女のブログを訪れた。やはり同じものだった。


 その後吸い寄せられるように、私はエリサ・ラムの事件に虜になっていた。彼女はロサンゼルスのホテルで不審死したカナダ人観光客だ。不可解なその事件はおぞましく、小説の中の出来事のようであって、しかもいまだに未解決だ。2013年の一月の終わりごろ行方不明になった単身旅行者はおよそひと月後、滞在先のホテルの貯水タンクの中で発見された。ダウンタウンのスキッドロウ近くにあるそのいわくつきのホテルは、かつて連続殺人犯リチャード・ラミレスがよく利用し、殺人鬼ジャック・アンタ―ウエガーが三人の売春婦を殺害した場所でもある。その他にも殺人や自殺が頻発しており、面白がってそこをあえて滞在先に選ぶ人間もいるくらい有名な場所だ。そこでどういうわけか、施錠されアラーム機能の付いたドアを潜り抜け、梯子が無くては登れず、か弱い女には到底持ち上げる事の出来ないドアをこじ開け、人が一人通るのがやっとの大きさの場所からどうやって侵入したのか、彼女は遺体となって貯水タンクで発見されたのだ。自殺かもしれないし、事故死の疑いもあると言われていた。不可解である。しかももっと不可解なのは、警察が公表したエリサの最後の姿が映っているエレベーターの防犯カメラの映像である。彼女しかいないように見えるその空間で、彼女は明らかに誰かを警戒し、しかも喋り掛けているように見えるのだ。そして明らかにおかしいほど長い間エレベーターのドアが閉まらないのだ。そして開けっ放しのドアからエリサは去ってしまい、その後ゆっくりとエレベーターのドアが閉まり、次の階でドアが開く。不気味な映像である。しかも誰が細工したのか、そのビデオの時間カウンターがぼかされているのだ。時間が細工されているのかもしれないし、映っていた誰かが消された可能性だってある。彼女が貯水タンクで浮かんでいる間、ほかの客たちはその水を使った。その水は黒く濁り、異臭がした。ホテル側は違うホテルに移るよう宿泊客に勧めたが、数人の客はそこにとどまったそうだ。そして従業員が貯水タンクの確認をして、エリサの遺体の発見、となったそうだ。21歳の女子大学生は躁うつ病を患っていたが、薬を欠かさず飲み、旅行中はカナダに住む母親に毎日欠かさず連絡を入れていたそうだ。そして彼女の事をよく覚えているという書店員は、たくさん本を買ってしまってちゃんとスーツケースに入るか心配していたという。そんな子が自殺なんてするだろうか?公開されている彼女の検視報告書を読んでみたのだけれど、死因は溺死で目立った外傷はないそうだ。また血液のサンプルの量が足りず薬物検査はコンプリートされず、報告書では事故死になっていた。


 まだインターネットの海の中を漂い続けている彼女のブログを発見して、読んでみた。悩める普通の女の子といった感じの内容で、まあ事件のあった2013年はブログも綴られていないので真相は分からない。しかし、彼女のブログの中でDaul Kimの事が綴られていることを発見してしまったので、少し面白いなあ、と思った。全くの関係のなかった二人の人物が死という事実で結びついている気がして、何か意味がありそうで気になった。


 自分にフォークを突き刺したい、そう表現してしまう事に私はちょっとした怒りを感じた。彼女に対してではなく、彼女が抱えていた怒りのような、何か。ナイフではなくあえてフォークをセレクトする彼女の心の闇。そういう表現方法はずっと前から映画や文学にたびたび登場して、私は突き刺したり自分を痛めつける事に対して一種の憧れを持っていた。病んだことに対しての異常な憧れを。学生の頃パルコのブックセンターで立ち読みしたもう題名も思い出せない外国の本に、スプーンで目を取り出すという描写があった。そして似たような描写は映画「ベティー・ブルー」にも登場したし、ドイツの奇才ユルグ・ブットゲレイトの映画にはたびたび自傷や暴力的な自殺の描写が出てくる。そういう出来事は全てフィクションの中での出来事に過ぎなかった。小さな頃から自傷する癖のあった自分はおかしいと思っていた。でも沢山の自傷する人間に出会い、それは現実にありふれている事だと知ったし、それぞれに事情があった。私の場合は度々襲ってくる非現実感・離人感に対して現実感を取り戻すための自傷が主だった。痛みを感じると生きていると実感できたし、血を見ると血が流れているという事実が確認できた。それは確認行為の自傷であり、別に死にたいわけではない。世の中で自傷する人間の殆どは別に死にたいわけではないのだと思う。でも自殺となるとそれはちょっと違う。自殺は死ぬ前提で行う行為であるので、ある一種の覚悟を感じるし計画的自殺にしろ突発的自殺にしろ、成功してしまえば最後この世から消えてしまう。絶対に後戻りのできない行為であるし、失敗してしまえば後遺症が残ったりする可能性もある。しかし、この世の中には覚悟を感じる自傷も存在する。それはほとんどが抗議の自傷であり、怒り、憎しみ、悲しみ、どこにもやり場のない感情を表現するために用いられるのがそれだと思う。それはしばしばセンセーショナルに報道され、ひとりの人間がここまでして醜い世界の怒りを自分自身にぶつけている、口出しのできない抗議なのだ、と思い知らされる。しかし、それで終わりだ。いくら自分を傷つけて世界に抗議しようが、明日になれば大半の人間はその意味すら忘れてしまっている。生身の体を張ったのに、後ろ指さされてしまう事だってあり得る。そして抗議のつもりで行った自傷で命を落としてしまう事だってあるのだ。


 うだるように暑い日曜日、以前悩み事を打ち明けてくれた職場の同僚が抗議の自傷で救急に運ばれた。電話口で泣きわめく彼をなだめようとしたが、泣いてばかりでちっとも話にならなかった。今彼は人生の岐路に立たされていた。かわいい彼女と結婚をしてアメリカの永住権を手に入れた彼は、あんなにかわいいと言っていた彼女に嫌気がさして、狂った関係を惜しみなくみんなに吹聴して回るくらいの、私に言わせれば溺愛ぶりだった。ふらふらと定職に着かない彼と、ちゃんと看護大学へ行きレジスターナースの資格を取った彼女。しかも彼女は彼よりも10も若い。今回彼の兄がヨーロッパに移住する事となり、それを悲観した彼の両親が国に帰って来いと迫ってきたのだった。彼の兄はゲイで、将来一般的な結婚による子孫の繁栄を望めない。その事もあり、両親は早く孫の顔を見たいと理不尽な要求をしてくる。孫なんて結婚しようがしまいが、血の繋がりがあろうがなかろうが、もう縁や運なので、それをただ結婚したからという理由で彼に望むのは間違っている気がするが、子供達を二人とも異国に送ってしまった両親は、これからの事なんかが心配になったのかもしれない。彼はなぜこの国に来たのだろうか?夢は?やりたい事は?そういう野望みたいなのを彼から感じる事は出来なかった。世の中には私達とは違う文明や世界の中で育ってきた人たちが存在して、恵まれていた私は不自由もせず日本という守られた国で大きくなった。しかしこの国に来るとその違いがひしひしと感じられて、自分なんかがすごく薄っぺらい人間に思えてしまう。同年代の人間は戦争を体験していたり、虐殺の中で育っているし、天涯孤独の身の私よりも若い人間も存在する。自分の子供達と同年齢の子が戦争を体験していたり、死におびえながら命からがら不法侵入してきた青年もいる。そういう人間たちにとってこの国で暮らせるという事は一種のパラダイスか何かなのかもしれない。夢なんていらない、やりたい事なんていらない。ただそこに住めるだけで幸せだ、という人間も存在するのだ。だからきっと彼は自分の国には戻りたくなかったんだろう。でも両親は聞いてくれもせず、私だったらそんなの無視して留まると思うが、忠実すぎる彼は9月の中旬に国へ帰るチケットを手配した。妻は一緒に来てくれはせず、そのことも悩みの種だった。国に帰るのと、滞在するのではわけが違う。しかも永住権保持者となればある一定の期間以上外国に滞在するとその資格を奪われてしまう。孫を望んでいる両親の事だ、国に帰ると結婚相手の女の子が準備されているかもしれない。帰ってくるの?という私の問いかけに対して彼は、わからない、と答えた。そして日曜日、かわいい妻に突然別れを告げられた。パニックに陥った彼は突発的に手首を切って、救急車で運ばれた。突発的で、抗議的、あるいは怒りに忠実な類の自傷。それはしっかりとそこに残って、ある日恥じるようになるかもしれない。後悔するかもしれない。その傷は私にもあって、怒りややるせなさ、そんな突発的な感情で消すことのできない傷をこの体に入れてしまった。普通でない事を見せびらかしているような気さえして、その傷が長い間憎らしかった。でもそれは自分が生きてきた証でもあって、それ無しでは今の私は存在しない。この傷が愛しい、そう思えるようになるまで10年かかった。彼もそう感じる事が出来るだろうか?理不尽な扱いや自分の安息を侵される事へ対しての怒りや情けなさ、そんな事へ対しての抗議の傷を愛せる日は来るのだろうか?


 冒頭の二人の女性は死んでしまった。ひとりは自殺で、もう一人は事故死。なぜこの二人がリンクしたのか、まだ意味は分からない。二人とも死にたくなかったのかもしれないし、もしかしたら、どちらとも自殺でもなく事故死でもなく、殺人なのかもしれない。Daul Kimの魂が、あのお墓に埋葬されたいって訴えているのかもしれないし、エリサ・ラムの魂が私本当は殺されたの、って訴えてきているのかもしれない。私は霊感がないから、幽霊もみたことがないから、わからない。でもそういう偶然の一致みたいなのは大好きだ。怒りや、悲しみが不思議なパワーとなって共鳴してくれそうな人間の心を動かしてしまう。そういう小説みたいな展開は嫌いじゃないし、こじつけてでも退屈な日常に魔法を取り入れたくなる。日曜から続く暑さはおさまらず、人間が暑さによって狂う事はあるのかしら?嫌、ありそうだ、絶対あるって確信的に感じてる。暑さでやる気をそぎ落とす化学兵器を使われたら、私は一発で撃沈だな。

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