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一隅を照らす当事者である〜不滅の法灯と焚き火と和ろうそくと対話と〜

新月会からうっかりはじまる

はじまりは、ふと思いつき、2022年9月26日に開いた新月会。インディアンフルート奏者の真砂秀朗さんに笛を演奏してもらい、みんなで対話をする時間を設けた。ちょうど同じ月に、竹あかりのイベントをしていたので、ろうそくを灯しながら、ゆったりと語らう。すると、ちょうど予定した時間頃にろうそくの灯りが消えていった。そういえば、ろうそくは時間をはかるものでもあったはず。時のうつろいを感じられるから、対話の場にいいかもしれない。

職人の時間=いのちが練りこまれる和ろうそく

対話の場でろうそくを使いたいとふと思ったとき、和ろうそくが頭が浮かんだ。知人から京都の和ろうそく店、中村ローソクを紹介してもらい、社長の田川さんに会いに行く。中村ローソクは全国でも数少ない、すべて手作業で和ろうそくをつくっているお店。

すべて植物性でできている
1本1本手づくり

原料ははぜ、芯はい草で、すべて植物性。燃えきった後に自然に返すことができる。そして、1本1本手作りする間に、職人さんの時間=いのちが練りこまれている。

当事者としてみんなで守り続ける不滅の法灯

和ろうそくだけでなく、菜種油を使った「たんころ」という装置?の話聞いた。菜種油に芯を浸し、火をつけて使うもの。江戸時代の灯り取りの1つだ。

我が家の「たんころ」ここに灯りがともると落ち着く

田川さんによると、比叡山延暦寺の不滅の法灯も同じ原理ということ。この不滅の法灯は1200年もの間、火を絶やさず続いているらしいが、「たんころ」と原理は同じなので、菜種油が切れれば、火も消える。この菜種油を注ぐ係は当番制ではなく、気づいた僧侶が注ぐ形で火を途切らすことなく続いてきた。まさに、1人1人が当事者となってみんなで守ってきた火なのだ(ちなみに、ここに「油断」の語源がある)。

和ろうそくも焚き火も対話も

京都から葉山に戻り、対話会で和ろうそくを使ってみて、気づくことがあった。和ろうそくの芯のい草は、西洋ローソクのように糸のように燃焼しきらないので、「芯切り」という作業が必要となる。芯が炭化して残るから、美しい火を維持するには、芯を切るという手間がかかる。

芯切りをしながら対話をしていると、何やら「焚き火」に似ているなと思えてきた。みんなが真ん中を見て、揺らぐ炎を見て、ろうそくの減り具合から時間の流れを知り、また薪をくべて焚き火の火を守るように、芯切りという手間をかける。「手入れ」が必要なものがそこにある。そして、薪ができるまでの年月に想いを馳せるように、職人さんが費やした時間を思う。

実は「対話」そのものも「不滅の法灯」や「焚き火」や「和ろうそく」を同じようなものだ。共に場を囲み、時の流れを感じながら、薪をくべるように湧き上がる自分の声を真ん中に出すことで、火が燃え上がり、みんなを照らす。誰がその場を握っているというのではなく、みんなが当事者になって、真ん中の火を守り続ける。

誰もが一隅を照らす当事者である


不滅の法灯がある延暦寺の開祖最澄は「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」ということばを残している。

「一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」
社会の一隅にいながら、社会を照らす生活をする。その人こそが、なくてはならない国宝の人である。

一隅を照らす運動サイトより

不滅の法灯と、この一隅を照らす人はリンクしている。「油を注ぐ人」が役割として決まっているわけではない。1人1人が火を灯し続ける当事者としてその場にいるからこそ、不滅の法灯は、今も光を放ち続ける。

不滅の法灯を、焚き火を、和ろうそくの火を、対話の場を1人1人が当事者として守ることは、象徴的なものだ。誰もが、社会の一隅を照らす当事者であるように。わたしも、あなたも。

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