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自分の<ことば>をつくる〜自分を表現することは、他者と共に生きること〜

私が対話に出会ったのは2020年のこと。それから対話の本を書き、対話の場をつくり続けているが、その原動力は「自分のことばで話す」ことの手応えを感じたことだ。それまで、割と自由に生きていたつもりだったが、それでも、空気を読んで、自己検閲して、(自分が思う)「社会のことば」に自分を寄せていたと思う。だから、「自分のことば」で自分の考えや思いを率直に話し、それが仲間に受け止められた時、率直な自分のことばが、誰かの何かに響いたとき、「世界と関わって生きている」そんな体感を持ったのだ。

今年の7月、ご縁があって、愛知県知立市の初期日本語教育指導者養成講座で、1日対話のワークショップを担当させてもらった。対話型日本語教育を取り入れた講座に際し、前提となる「対話」を理解してもうおうというものだ。準備のために、対話型日本語教育について調べていると、細川英雄という人の名前に何度もぶちあたり、その流れで、著書「自分の<ことば>をつくる」を手に取った(この本は、哲学者の苫野一徳さんも推薦されている)。

細川英雄さんは、日本語教育の専門家として大学で教鞭をとり、現在は言語文化教育研究所八ヶ岳アカデメイアを主宰。多くの著書や論文発表はもとより、メルマガやVoicyなどでも、自身の活動を精力的に発信されている。

部分は全体を表す。私は、貿易会社、研究所、日本語教師、保健師と色んな職業を経験してきたが、どんな分野も突き詰めてみれば、本質的な問題に行き着くなと思う。そして、極端なものの奥には、普遍的なものが眠っているとも思う。例えば、保健所で扱う児童虐待やゴミ屋敷問題は、日本社会の中で見えなくなっている家族や人と社会の関係、経済の問題などの光を当てることができる。

細川さんは、確かに日本語教育の専門家だが、「外国人に日本語を教える」という行為に端を発し、日本語話者同士の間では見えづらくなる「ことばとは何か」「コミュニケーションとは何か」という本質的な問題に取り組んでこられた。そして、そこで得られた実践は、日本語教育という枠を大きく超えて、ことばを使うすべての人に大切なことだと思う。

わたしたちは、成長過程において、「自分のことば」を少しずつ失っていく。学校で作文を添削されたり、レポートの内容ではなく形式で減点されたり、上司やパートナーに「お前の言いたいことがわからない」と言われたり。いつの間にか「この場ではこう話すべき」という想像上の正しさで自己検閲するようになってしまうのだ。

細川さんの著書に登場する留学生が「正しい日本語」の呪縛から解き放たれて、自分の興味関心をもとにした自分のテーマを、「自分のことば」で語り出すとき、そこには活き活きとした相互作用が生まれる。その相互作用によって、自分のテーマがより深まり、自分が何をどう伝えたいのかより明確になっていく。対話の場でもよく思うことだが、ことばに出し、自分と他者の反応を観察することで、より自分自身がよくわかるようになるのだ。自分自身も、自分のテーマも、他者なしでは掴むことができない。

自分の考え(内言)を他者に向かって発する(外言)ことで、生まれ、磨かれる「自分のことば」は、他の誰にも代わってもらうことができない。逆に言えば、自分がやらなければ、その表現はこの世界に現れることはないのだ。そういう意味において、自分を表現することに責任があると、わたしは思う。

あなた自身が考えていることを相手に伝えるためには、あなた自身の<ことば>の中身が不可欠です。その中身とは、あなたにしか語れないことであり、あなたの全存在をかけて相手に問いかけるものであると言えるでしょう。

p4, 細川英雄「自分の<ことば>をつくる」

現代は、ことばに対する信頼が失われている時代ではないかと思う。そもそも、ことばそのものが、「言いたいこと」を完全に表すことはできず、「ことば以前のもの」をことばにする時点で、多くのものを切り捨てざるを得ない。その上、形式やわかりやすさが重視され、実感のない、身体性と切り離されたことばが溢れかえっている。細川さんのいう「全存在をかけて相手に問いかける」ことばとは真逆のような話だ。

2022年12月25日に出版された最新刊「対話することばの市民」では、「言語活動の活性化」といった内容が何度も言及されている。一人では生きることのできない人間が、他者と共に生きていくために駆使する言語活動の活性化は、とりもなおさず、人的交流の活性化に他ならない。また、他者を通して始めて、自分を知ることができるとすると、言語活動の活性化は、自分を知り、この社会で自分が自分としてよりよく生きることにつながっていくはずだ。

経済、教育、福祉、医療、現在、様々な分野で制度疲労が見られる今、社会の<大きなことば>ではなく、1人1人の小さな<自分のことば>こそが、活き活きした「共に生きる場」としての社会を生み出すのではないかと思う。

最近、わたしが出版したバイオグラフィ「草稿 生成しゆく表現としてのわたし(我他史)」は、そんなわたしの「<自分のことば>をつくる運動」の一環だ。<自分のことば>を表現し合い、受け取り合い、磨き合い、自由に活き活きと生きることのできる場を共に作っていくことができますように。



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