「学級集団づくり」を問う
とりあえず、うるとらざっくりの概説からスタートします。
「学級集団づくり」の源流
「学級集団づくり思想」の現場での萌芽は、地方の貧困家庭の子どもの学級内での関係性が、その地域の大人の力関係の影響を受けないようにというところからスタートしたと思われます。
主だった流れは時代的には1950年代後半からと思われます。
これが「(共産主義的)科学的民主教育」「(共産主義的)人格発達論」という思想と結びつき、さらに旧ソビエト由来のマルクス・レーニン思想を源流とする集団主義教育の要素をとりいれ(※1)て「全国生活指導研究協議会(全生研)」という教組系研究組織の関与で「方法論化」され、高度成長期以降、全国的な教員不足や、冷戦下といった状況、進歩的文化人礼賛の世情等もあり、当時の若い教員の支持を得て、急速に広まったと思われます。
(※1 マカレンコ式と言われることもあるが、全生研方式としてまとめられた大西忠治氏のものと思われる手法等は、マカレンコの著作中の方法論よりも心理的圧力要素が強くなっている。(2021/3/17追記))
「学校こそが地域や家族から子供を自由にし、子どもの(民主的)人格の発達を促せる場である」
という前提にたちます。
今となっては、多くの人がその存在に疑問を抱かないであろう学校での「生活班」というのも、その流れでできたものです。
全生研の理論的支柱と言われるのは、故・竹内常一氏という教育学者で、氏は「生活指導の理論 1969」の中で、「学級集団づくり方式」の正当性を綴っています。
「学級集団づくり入門第二版 全生研編 1972」では、今であれば誰がみても「いじめの促進では?」と思えるような手法が多数、指導手法として掲載されています。
いわゆる「吊し上げ学級会」「吊し上げ帰りの会」は「クラスにゆさぶりをかける」一つの手法として紹介されています。
残念ながらこの書籍は教師向け書籍としては異例ともいえるベストセラーとなりました。
さすがに多少の批判は出たのか?次の版では、そういった露骨な手法の記載はなくなっていましたが、それでも根底の発想は変わっていなかったようです。
少なくとも、1990年~91年刊行の新版でも
「(非民主的な)地域や家族から子供たちを守り、民主的自治集団の一員として育てる」
「子どもたちを通して(非民主的な)地域や家族を民主的集団へと導く」
という前提は崩れていなかったように私には読み取れました。
教組の組織率は低下したが…
教組は、日教組(旧社会党系)と全教(共産党系)に分裂し、最近では組織率もかなり低下していることから、その思想的な影響は少ないのでは?と見る向きもあるでしょう。
しかしながら、1975年に22才で学校教員になった層が定年退職したのは、2013年。管理職であれば2018年と、ごく最近の話です。
先輩、後輩関係での指導技術の伝達を加味すれば「学級集団づくり方式」の薫陶、影響をうけた学校教員はいまなお多数いると考えるのが妥当ではないでしょうか。
そして、現在でも「学級集団づくり」を源流とした方法は多数生み出されています。
「学級集団づくり」というキーワードでamazonや楽天ブックスで検索すれば沢山の教員向け書籍がでてきます。
学級集団づくり思想の何が問題か?
これはひとことで言ってしまえば「集団至上主義」に陥りやすく、「同調圧力」が発生しやすいということでしょう。
集団から少し外れた存在への許容度は低くなります。
そして「侵害された側」に責任がおしつけられやすくなります。
以下は、「Q-U式学級集団づくり」を提唱する早稲田大学河村氏のQ-Uの説明ページです。
氏の開発したアンケートによる、被侵害得点と 承認得点をそれぞれ、ルールの確立、リレーションの確立としたものですが、
「学級生活満足群」「学級生活不満足群」「被承認群」「侵害行為認知群」「要支援群」という分類がなされています。
「被侵害得点」という尺度はなかなか興味深いものですが、「被侵害」という観点がありながら「侵害行為」「侵害群」の発見や対処については、触れられていません。
支援や指導についても対象は「被侵害得点の高い子」であり、想定されていない侵害群に対しては、何ら指導がなされない方式です。
「学級生活満足群」内に侵害群がいる可能性は否定できません。
いわゆるスクールカーストの上位層を考えてみればいいでしょう。
上記ページから少し引用します。
③ 被侵害得点と承認得点がともに高い児童生徒は、学級生活や諸々の活動に意欲的に取り組むが、そのプロセスでトラブルが生じてしまうこ とが多い(侵害行為認知群)。実際に深刻ないじめを受けている場合も考えられるが、本人にも自己中心的な面がある場合が多い。
この群の児童生徒がトラブルを訴えてきた場合は、単にその出来事の白黒をつけて指導するのではなく、どういう理由でトラブルになったのか、その時のお互いの感情はどうだったのかとい点を、時間をとって考えさせることが必要である。他人の気持ちを考える視点や社会性を育成するのである。
この前提に教師があるとき指導対象の一方方向性や教師の「疑い」を敏感に感じて利用し、他者を侵害しながら表向きは適応的に動く子が「学校生活満足群」にいた場合、改善に向かう可能性は低いと思います。
意図的かどうかにはよりませんが、教師自身が「指導」の名の元に侵害行為を行っている場合も、全く効力を発揮しないのは言うまでもないでしょう。
とても気になる文章がありました。
先生の「いじめをしていた人が嫌な気持ちになるから書き直して」という指示の意図はどういったものだったのか?
表向きにクラス運営うまくいっているからといって、いじめられた事実はなくなりませんよね。
いじめなどを起因とするの不登校は後を絶ちません。そして、学校側の隠蔽体質も、ときどき報じられます。
被害を受けたお子さんの気持ちを考えると心が痛みます。
そして、また、「やってはいけないこと」を「やってはいけない」と学ばないされたまま成長していく子供たちは、そしてそれを見ていた子供たちはその後どうなるのか?これも気にかかります。
「子どもたち自身で決めさせる」「意見を出させる目的」という大義名分で、「吊し上げ大会」が行われるという話はいまもまだあるようです。
「学級集団づくり」を推す方が「正しいやり方ではないから」「社会がかわった」「子どもたちが変わった」という理由付けをし、元々の「学級集団づくり思想」を擁護されることが多いように思います。
繰り返しになりますが、学級集団づくり思想のベースは
「学校こそが地域や家族から子供を自由にする場である」
というものです。
そこには「学校>家庭・地域」という優劣づけが見え隠れします。
そういった視点からの家庭への介入は、拒否されて当然ではないでしょうか?
確かに、いわゆる機能不全家族のお子さんにとって、学校が「唯一の居場所」となることはあり得ますが、そうなるとは限らないのも事実です。
私自身、小学校3~6年の頃に「吊し上げ学級会」での教師主導の排除型いじめに遭いました。私が決定的な人間不信に陥らなかったのは、両親と地域の大人たちのおかげです。
(今にして思えば、若い担任教師が、「学級集団づくり第二版」そのままに学級運営しようとしただけだった、そして制御不能に陥ったのだと思われます、もちろん許せませんが)
今現在も、そして過去も、真摯に子ども達と向き合おうと努力されている教員諸氏が多数いるのは承知していますが、いじめや不登校や学級崩壊といった事象が多数発生している今日、「学級集団づくり」という考え方そのものを問い直してみたほうが良いように思えてなりません。