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書評:なぜ集団主義を選んだのか

ここのところ「いじめ」の研究とともに「学級集団づくり」という指導法の系譜について調べている。学級集団づくりについての記事はこちら

タイトルと内容の乖離に啞然とする

その関係で一冊の本を手にしたわけだが、何ともはややりきれない気持ちになった。

 

中身は論説ではなく、6人の教師の綴る「物語」で埋め尽くされていた。

論説の類ではないので、基本的に要約ができないし、引用しての検討も難しい。 

タイトルと中身のスタイルの乖離を見るにつけ、この国の国語教育が心配になってくる。

あらすじ抽出を試みる

気を取り直して眺めてみると6人の著者のスタイルはかなり違う。

「作文」もあれば「随想」なものもある、そして、大西忠治氏の書いた部分は、非常に私小説的であった。

「大西忠治物語のあらすじ」として抽出を試みた。

圧縮比としては1/12くらいである。

 

大西忠治物語 あらすじ


大学を出た忠治は故郷を遠く離れた北海道の浦河町の中学校の国語教員となり、「詩や作文を書かせ、読んでやり、文集にまとめる」といった詩作や作文を中心にした教育にひたすら邁進した。
「生活綴方」という教育実践のサークルに入っており、積極的に活動していたが、その会合で「君は敷居が高い」といわれ、学生時代からの悩みが頭に浮かんでくる。
「もっとざっくばらんな男になりたい」「どうして俺はこうなんだろう」という悩みを抱えていた学生時代、そしてやっと「どうしようもない」と悟ったつもりでもなにがしかの寂しさが胸の中に渦巻く忠治は、「集団の権威を尊重する中でこそ個人が救われ、高まり、伸びていく」という会の仲間の発言に一縷の光明を見出す。

日常はいつもの通りに過ぎてゆき、子どもたちは「いい作文」を書いてくるようになっていたが「集団への高まり」が起こらないことで、忠治は自分の実践に絶望感を感じていた。そしてその「絶望感」はサークルの皆には理解されないだろうという更なる絶望感を生むのであった。

忠治は「『集団』に無関心であった自分」を恥じ、「君人の子の師であれば」「山びこ学校」「学級革命」などの名著を暗唱するほどに読み返しながら、そこから「子どもを集団化する手立て」が読み取れないことに苦悩し、「あんなに綴方を書かせたのに」「あんなに話し合いさせたのに」という思いと共に「力量不足」を感じるのみであった。

教師であることへの自信を失っていた忠治は、書物に溺れるが如く教育実践録を読みふける。
そして「山びこ学校」や「学級革命」には「学級をどのような集団に育てるべきか?」といった、忠治が切に与えてほしいイメージがかかれていなのではないかと思い始める。
 
そんな折、忠治の住む町で、無着成恭氏が「山びこ学校」の卒業生1人を伴っての講演をするというイベントが行われた。
「すぐれた集団づくり」のヒントが得られないかと出向く忠治であったが、自分自身との比較からさらに絶望感を深め、教師として再出発するために郷里の香川にへ帰ろうと思い立つのであった。

郷里香川での採用試験に合格し、教師生活を再開した忠治は、北海道時代と同じ日記指導を続けたものの、さっそく壁にぶち当たる。
提出された日記の中に「先生は授業が下手だ、しっかり教えてほしい」と書かれ、ただならぬショックを受けた忠治は、その後同僚や後輩の授業を盗み見し、さらに同地の国語教育研究会にも参加するようになる。

研究会で語られている内容がなんのことかさっぱりわからない忠治は、そこに技術主義的な反感を抱くようになるが、担当学級のテストの平均点の差に自分の技術の低さに打ちのめされる。そしてかつて軽蔑しきっていた教育技術を知るにつれ、理念に偏り過ぎていた自分への自己嫌悪に陥るのであった。

忠治は研究会の教育技術研究に技術を学んだ。が、やがて教員たちの姿勢に「思想的な裏付け」を見いだせないことへの不満を感じた。

自らは納得いくまで問い続けようと思った忠治は、研究会や誌上で自らの疑問を批判的に発するようになったものの、そのことで香川の研究体制からなかば締め出され、技術と思想の結合に傾倒していくようになる。

そこに至って忠治は「教育実践」を読んで「感動」しかしていなかった自分に気づくが、それは当時の書評等々の状況としては無理もなかったし、その問題に気付いただけマシだと感じ、実践を自分で理論化することの重要性を思い立つのである。
 
「山びこ学校」の真似をして班を作ったりという実践が上手くいかないとどこに思想的欠陥があったのかを考える、といったことを繰り返すなか、北海道時代の教師仲間からの手紙を契機にマカレンコの著作に再び触れることになる。

かつて香川大学の哲学研究室で読んだときには「感動」しかのこらなかったそれにふれることが、忠治の中に「自分の実践を自分で理論化し、分析するということの何たるか」を確立させ、また、「班づくり」「核づくり」「討議づくり」という己の理論がすでに自分のなかにあったことを明白に認識させるのであった。

それでも、自分は生活綴方教師であると自認していた忠治だが、やがて同じ流派の教師との交流において「綴方指導」が集団主義から離れていっていること気が付く。

忠治は「その隔たりは「山びこ学校」「学級革命」などをそらんじるほど読んだ自分の罪だろうか?」と寂しさを胸にしながら「生活綴方教師」であることをやめたのであった。

そして忠治は「全国生活指導研究協議会」のなかで「集団主義的教育」の担い手としての歩みを始める。

そうしているうちに無着氏と対談する機会にも恵まれたが
「全生研なども、本当に科学的な内容のある授業をできないから、生活指導などといつまでも言っているのではないか?」
という無着氏の意見に接しても、「ただただ遠いところにいる」という思いしかうかばない忠治であった。

「善人的な教育をやめたい!」

第九次教研集会で、そう叫んだ忠治が、教室で推し進めたのは「容赦ない追求(追及)こそが、真の友情をつくり、子どもたちを高める」という「学級集団づくり」という理論であった。

無力感と絶望感に打ちひしがれた忠治が教師としての絶望感から這い上がるためにはそうするしかなかったのだ。


そして幾たびかの実践の後、「子ども集団のちからの確立」を見たような気がした忠治は、自らの生み出した「学級集団づくり」を核とした「集団自身が集団自身指導するための教育こそが真の民主主義的教育」であるとの確信を深めていくことになる。

 

絶望名人?

あらすじとして抽出してみると、大西氏は稀代の「絶望名人」であるように思う。

そして「他者と自分を引き比べる」ことにかけてもかなり名人芸を発揮しているようだ。

大西氏は教師生活において「感動」したかったのだろうか。

 


 


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