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部屋に住んでた猫が死ぬこと

たもつが死んだ。

たもつはうちで飼っていたオスの猫だ。見た目がシャム猫っぽいので、きっとシャム猫の血が入っているのだろう。顔と耳の毛が黒いので、何枚写真を撮ってもどんな顔をしているのか分からない写真しか撮れない猫だった。私がリビングにやってきて座り込むと、やっと自分のくつろぐ場所ができた、とでも言うようにのそのそと歩いてくる。そして私の体にどしどしとよじ登り、腹の上でくつろぐ。きっと人間を寝心地の良いソファとかベッドだとか思っているのだろう、そんなやつだった。初対面のお客さんの膝にもすぐに乗るので、うちに遊びに来る人のアイドルであった。

たもつはもうすぐ18歳だった。よくある誕生日とか家に迎えた日、とかは知らない。私が高校生くらいの頃に、妹が近所の公園でつかんで拾ってきたらしい。家に子猫がきてかわいがる、育てる、というような記憶がほぼないので、おそらく私は子猫のたもつの世話をしていない。
その頃の私は家に居場所がないと感じていた。だから記憶がほとんどないし子猫の記憶もほとんどない。
いや、18年も前の記憶なんか覚えてないのが普通か…。それなのに記憶がないのは、さも家族関係のせいであるみたいな、こうやって家族というものへの不調を訴える機会をみつけてはぶつぶつ言い続けている奴なのだ私は…客観的に思うがまっすぐか歪んでいるかでいったら歪みめの人間だと思う。

気がつけば物語なんかでもそういう人間が出てくる作品が好きだったりする。今、四畳半神話体系の映画をやっているけど、あのアニメもものすごく好きだった。
その作品の主人公は斜に構えたやつだ。自分がゆがんでいるからこの作品が響くのだろうな、と自己分析してまっすぐめな性格に見える人にこの作品を勧めるのをやめたりとかしている。

まあ、言うて「自分の性格は歪んでいる」なんていう自己評価はだいたいがそう思いたいだけの自意識過剰なんだけど。そろそろほどほどにした方が良いなと思いつつぶつぶつと言っている。

たもつは6月末に歩けなくなった。思い返せばここ1ヶ月はいつ見ても私のベッドに横たわっている。湿気がつらいのかな~がんばれ~くらいに考えていた。だけどご飯も水もとっていない様子だったのでこれはまずいのかもしれないと動物病院の予約を取った。予約の日が来るのを待つ間にも、とすとす軽快だった足取りは、おぼつかなくなっていく。ある朝方ふらりふらりと大きく左右に揺れながらトイレに向かうたもつを見て、「ああダメだ」と思った。ちょうどその日は徹夜でやらないと終わらない仕事をやっていて、だけどマウスを握る手が震えてしまって、とても大丈夫とは思えなくて、仕事の人に謝って抜けさせてもらい、おいおい泣きながら朝方の救急病院につれていった。そこで腎不全だと診断された。

腎不全は多くの猫が長く生きるとかかってしまう、治ることのない不調だ。腎臓が縮まって、水を飲んでも体に取り込めず、尿の毒を分解して排出する機能が失われてしまう。点滴をしないと脱水になり、尿毒素が体にたまって、それが脳まで達したらひきつけを起こし、嘔吐しながら死んでしまう。病院ではそう言われた。だからそうならないように、なるべく安らかにコトリと息を引き取れる、その死を目指して2日おきに動物病院に通い、点滴を差した。

3日間の入院から家に帰ってきたたもつは、それまでのお気に入りの場所は捨ててしまったかのように、部屋のなるべく隅に居て、一日中横たわっていた。私が家に帰ってきたり、たもつのいる部屋に入ると、頭をあげてこちらを見る、そしてまた横たわる。私のそばまで歩いてくるつもりはないようだ。唯一トイレには歩いて行く。猫はトイレにものすごいこだわりがあり、最期まで自力で行くと聞いたことあった。あとどのくらい保つのだろう。病院では、この状態から半年一年生きる子もいると言われた。それは希望を感じる言葉だった。エサを食べられるようになればまだまだがんばれますよ、と言われた。エサを食べるかどうかが寿命の目安のようだった。

水は少し飲む。固形のエサは食べなくなった。ウェットフードならまだ食べるかもしれないといわれ、チュールを与える。食べる日、食べない日、を繰り返しながらだんだん全く食べなくなっていった。たもつがエサを食べてくれるかどうかは、たもつの命に直結している。だから食べた時はすごくうれしくて、食べない時はとてもつらい気持ちになった。
ある時それはよくない状態だなと思いなおして、たもつがチュールを食べても食べなくても、自分という存在には全く関係がないことだと思うようにした。たもつは私とは違う生き物で、同じ部屋で生きてるけどただ別の命なのだった。たもつの命はわたしには関係ないたもつの命だった。食べたくない。食べられない。それに私が一喜一憂することは本当なら因果関係のないことだ。これは悪い依存だなとぼんやり考えた。
たもつは死のうとしているのだから、わたしはそれのそばにいて、ただそれを見つめて、点滴を刺したりして生きるだけでしかなかった。

それでもチュールや水を飲んでほしくて、自分のエゴだと分かりつつ、一日一度は無理やり口に含ませたりした。

入院からちょうど2か月くらい経った8月末のある日、私が家に帰ってきても、たもつが私の方を見なかった。頭どころか体のどこもぴくりとも動かない。
いつもの部屋の隅で丸くなり眠っているようだった。やわらかそうな毛。
だけど「たもつ」と何度呼びかけてもぴくりともしなくて、
そこにあるのは体だけになっていた。
たもつはそこからいなくなっていた。
心はすぐに理解した。
命が小さくなっていくのを見ていたから。
受け入れられないことは何もない。
ただ身体が大声で泣いているだけだった。
自分は今どのくらい大きな声で泣いているのだろう、けっこう大きい気がするから近所の人にも聞こえているのかな、とぼんやり申し訳なく思った。
人間ってもうほんと自動的に、身体が「泣くという処理」をして精神を整えている。
変な生き物だなって思う。
たもつが泣いたことは一度もなかった。

たもつのお葬式をして体を燃やしてもらった。
18年、この部屋にいたたもつが今はもういない。
奇妙だった。虚無感。
去年祖父が死んだときにはこんな風にならなかった。あの祖父の死とたもつの死では違うものが私に訪れている。
毎日を一緒に生きていた生き物が死ぬということはこういうことなのか。
たもつのサイズの分だけ、虚無感のようなものが身体に、この部屋に出現していた。
もしもたもつが人間くらいの大きさだったら、自分の身体全部がそれに覆われてしまっていたんだろう。
そしたらどうなっていたんだろう。

もう腹の上によじ登ってくる猫がいないリビングに座っている。
居心地の良い部屋。
たもつが猫でよかった、と思った。


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