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好きなことでお金を稼ぎたいのは罪深いことか?

好きなことで生きていきたいと思っている。

私は「嫌だ」が強い。
嫌なものは嫌。
そうも言っていられないと分かったところで、一分一秒でも、嫌なことをするのが我慢ならない。
だから24時間365日遊び暮らしたい。


24時間365日遊び暮らすのはどう考えても無理だとすると、それに一番近いのは、「好きなことを仕事にすること」だと思う。

まず第一歩ということで、写真をピクスタで売りに出している。

著作権とかナントカ権とかに疎いもので、撮っちゃいけないものを撮って売ってルール違反になったりしたらどうしようとヒヤヒヤするが、今までに何枚か売れたりして、喜びもある。なかなか時間のコントロールがうまくいかなくてできていないが、イラスト販売の研究と実践などもやりたいと思っていた。

が、葛藤もした。生き物の写真を売りに出したとき。
勝手に生き物の写真を撮って、勝手にお金儲けをする罪悪感があった。一生懸命生きるものでお金儲けをしようだなんて。

自分は今までにやったことで、面と向かって批判されたことはないが、動物系ユーチューバーさんのコメント欄に、「動物を使ってお金儲けするなんて」みたいなコメントがあるのを見た。

「動物の絵を自分で描いて売る」とか「動物の手作りグッズを売る」のはまだ、自力で作ったアートだから「努力」と認められやすいだろうし、批判されにくいだろう。けれど、「映像を撮る」ことは「作品」と見なされにくいのだろうか。「映像を撮るために飼う」というように見える形が批判されやすいのだろうか。

けどそんなこと言い出したら、逆に「何ならお金にしていい」のだろう?
お金に変えるとは、多くの人にとって、場当たり的なことではなく継続できるシステムだ。
そんな中で、何ならお金に変えることを許可されるのだろう?

この地球上に、「人間のもの」など一つもありはしないのに、我々は地球上にお金というものが存在する体で活動する。
そういうことにしないとシステムが成り立たない。他の生き物にとっては存在しないか、理解できない概念だろうが、ホタルにとっての光や、鳥にとっての飛ぶことくらい、人間界は独自の設定を大事にしているのだ。

そんな中でも、「お金に変えること」への違和感というのは、結局すべてのものにあるのではないだろうか。


何か面白いものを見かけて、「ここから先はお金を払ってください」と言われとき。
ペットショップに、たくさんの命が並んでいるとき。
素晴らしい芸術に値札が付けられているとき。
私たちはどことなく虚しさを感じることもある。「結局世の中お金なのか」と。

でも、服が好きな人は服について、本が好きな人は本について、植物が好きな人は植物について思ったことがあるだろう。
買われた服がたった1日くらいしか着られずに捨てられていたら。
ちょっと読んだだけの本がすぐゴミ箱に捨てられていたら。
買われた植物がすぐに枯らされていたら。
そういうことを考えると、「お金さえ出せば、価値の分からない人の手にも簡単に物が渡ることが悲しい」と。

ならば、「生き物でお金を稼ぐ」ことだけがとやかく言われるものではないだろう。

私は現在作業上、人が食べ残したものを自らの手で捨てることが多いのだが、米一粒だって米にしてみれば、芽を出し花を咲かせることができたはずの命1つだ。
食べきれずにお肉が捨てられているのだって、毎日人の手や足が切り捨てられているようなものだ。

そんな世界の中で、自分にとって目に見えて目立つもの、違和感を捉えやすいものだけに、「それでお金を稼ぐのはおかしい」と言えるのだろうか。
野菜だって魚だってプラスチックだって宝石だって地球のものだ。



……人として生まれたならば。毒食らわば皿まで。

創作物が売られているのを見て、「本来私たちの表現は、量り売りされたり制限を加えられたり、優劣があったりする売り物じゃないはずだ!」と思う。売れる・売れないで判断されるようなものではないと。表現は自由だと。

しかし、無料でアートを公開している人はすごいが、忙しさで投稿が途絶えたり、創作する時間がなかったり、現実的に趣味ばかりやっていられなくなったりして、消えてゆく人が多いように見える。

好きなことなら続けられるはず? 無料でもいい?
それも選択だが、1分1秒でも、死ぬまで好きなことを続けたいと思うのなら、お金にしたいと考えるのも自然な流れじゃないだろうか。特に私みたいな、「好きじゃないことをやることは1秒でも耐えられない」ようなタイプの人は。

私は子どもの頃、虫を追い求めて走り回ったり、本を読んだり、ゲームをしたりしていた。まぁ多くの人が子どもの頃はそういう感じだっただろうが、誠に好きなことを好きなようにしたところでお金にはならない。好きなことをこの世に合わせて整え、商品にしなければ。

私は表現の時間が足りないと感じる。
もっともっとやりたいことが山ほどある。交流もしたいし創作もしたいし、それ以外の遊びもしたいし、寝たり休憩したりもたくさんしたい。自分の意図しない作業で疲れ、やりたいこと以外で消耗して消えていく人生は嫌だ。今も刻一刻と寿命は消えてゆくというのに。

しかも焦りすぎてどんどん心が狭くなり、選択も不安定になる。時間と余裕のある人ならばどんどん幅を広げられるところを、私はどんどん、不要な物を切り捨てようとする。

私ごときの価値観で、必要なものと不要なものを見分けられるわけもないのに。もし見分けられるならば、今頃人生成功して、毎日充実した人生を送っていることだろう。

時間が足りない。飲み食いする私と、寝たりボーッとしたりする私と、仕事をする私と、交流する私と、遊んだり趣味に没頭する私と、ひたすらゲームをする私と、表現したい世界の勉強をして知識を蓄える私の7人くらい欲しい。もっとかもしれない。時間が足りない。

時間が足りないのはなぜか? 時間とお金に対する認識、自己コントロールが甘いからだろう。こんな調子じゃ、人生いくつあっても、毎日愚痴だけ言って終わってしまう。

現段階でこうなのだから、現段階の考えは間違っているのかもしれない。しかしやはり、好きなことがお金になれば良いのにと思う。

こうやって今書いている文章がお金になったら。毎日好きなことのルーティンで生きていける。「お金を稼ぐ」工程が一つ減る。たくさん稼げれば稼げるほど、他のことの時短もできるだろう。安くしようとか節約しようとか我慢しようとかいうシーンも減るだろう。自分にとってのやりたいことに時間をかけ、それがお金になり、他のことを補えるはず。生き方が上手ならの話だけど。

……そりゃ、もしも自分の趣味やお金儲けのためだけに、生き物を劣悪な環境に閉じ込めるなどしたならば、批判もされるだろう。

しかし懐いているように見える生き物は不幸そうには見えないし、何が劣悪や「失敗」かも、今の人類にはまだ分かっていないんじゃないだろうか。

田んぼにはギュウギュウに稲が植わっているように見えるが、あれが稲にとって不自然で劣悪な状態なのか、とても良い環境なのか、私には判別つかない。どちらの意見を言われても鵜呑みにしてしまうかもしれない。

しかし人とペットにしても、恋人同士にしても、その関係は他人には理解できないものなのだろうと想像する。
表面だけを見て、傍目にやいやい言う人には分からない、それぞれが向き合う相手との間にだけ通じる思い。それが世界を回している。

だからみんな個人で、少しでも腑に落ちる関係性、または「これなら続けられる」ということを探すのだろう。

私は自由な生き物の写真を撮って売りに出した。写真に撮ることでは生き物の命を奪っていない。けれど今まで生き物たちを虫かごに閉じこめたまま殺してしまったり、たくさんの植物を枯らしてしまった事実は消えない。そして今も撮ろうとしてカメラを向けたら生き物たちは逃げるし、怖いのだろうと思う。

動物虐待や飼育放棄に近いことをした人の投稿関連に、よく「あなたには動物に関わる資格がない」「二度と動物を飼わないでください」というコメントが付いている。生き物が好きでまともな人ならみんなそう思うのだろう。

私も生き物を育てられず殺してしまったから、生き物に関わる資格はないのかもしれない。けどだからといって、人と関わる資格があるとも言えない。もしどっちの資格もないと言われたら死ぬしかないのか。

ただ、私が申し訳ないと思うべき相手は生き物である。第三者が現れて急に裁いてきたとしても、その人は関係なくないか。私がいじめられているときに助けてくれた人がいた覚えはないが、私の言うことをあれこれ批判してくる人はいる。「生き物の命について」裁かれた経験はまだないけど。

ネットにも、見ず知らずの人の見ず知らずの出来事に、評論家もどきが現れる。人の心の奥底を救うことはせずに、表面的なことに集まって口でだけ裁いてくる。誰かの意図や、多数派の世論で剪定された情報に乗っかって口を出す。それはそれで偽善で罪深いことなんじゃないだろうか。

私は私の生き方がよく分からなくて、過ちも多くて、だけど死ぬことも謝ることも、人生を償いに捧げることも怖くて、迫ってくる「普通」や「常識」の概念と、望まない結果のすべてが嫌で、逃げ続け、右往左往している。

たとえお金のためであっても、難しい投資とか経済のナントカは最後まで理解できそうにない。しかしそれでも私は、人間界の果てまで逃げたいから、お金のことを知りたい。
生物の根源的概念の届かないところ、日常が届かないところ、恋の歌が聞こえないところ、性別や年齢の考え方がベースである世界、そして、前世と今世と来世で犯すすべての罪と過ちから逃げたい。

私は自分の作品には甘くて、全部思い入れがある。納得して作れたってことだろうか。自分のなら良いんだろうか。そのように納得できるものを作り、見聞きし、必要以上に、馴染めない概念に溺れないようにしたい。心の居場所を保っていたい。

世の中お金がすべてという考えにも、今は頷いてしまうかもしれない……。お金があれば、圧迫感のある概念からの逃げ場と居場所を得て、ある程度何もかも好きにできるのだろうなと。

お金がすべてだと言っていた人、愛よりお金だと言っていた人は、人嫌いだったのかもしれない。お金を通して、日々嫌々、世界と関わっていたのかもしれない。誰にも心の内を打ち明けず、誰といてもずっと孤独で、お金が望みを叶えてくれることだけがホッとできるひとときだったのかもしれない。

人の言うことに共感できる人、自分と違う意見も楽しんで聞ける人、人付き合いが好きな人は、「お金は大切だよ」とは言うかもしれないが、「お金がすべて」「愛よりお金」と断言することはない気がする。お金以外で何かを得た経験がたくさんあるだろうし、お金でしか望むものを得られたことがない人は多分、世渡り下手だから。

「世の中お金だ」って言う人は、人の意見を見聞きすることや翻弄されることが苦痛で、「好きにしたいけど好きな生き方ができない」みたいな、そういう焦りとかガツガツした思いがあるのかもしれない。

とかいう分析はさておき、私がお金で何でも買って、価値も分からないうちにポイポイ捨てる人にならないように、どちらかというと貧しい経験ができて良かったのかもしれない。

あんまり学べたとは言えないけれど、これから少しは物や命のこと考えながら、お金持ちになりたい。社会や地球に還元したいなどとは思えない、自分の好きなことにエネルギーを100%使いたい貪欲な人間だけど。

そもそも何も持っていない状態で貢献も還元もできないし、私が豊かになれば、人の夢や個性を削ぐような言動の一つや二つ減って、人に与える被害がマシになるかもしれない。私が世界にできそうなことは、自分のマイナス100の性格を1ミリましにして、マイナス99くらいにすることだけだ。



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