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人種差別に関する、目から鱗な物語。



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マラードはルイジアナ州に位置する架空の町。ここは、1848年に設立されたどちらにも属さない境界の「第三の地」だ。ここに住む肌の色が薄い黒人たちは “白人と認められることは絶対にないが、黒人として扱われることを拒む者”達で、マラードは彼らのための町なのだ。 1938年この土地にクリーム色の肌を持った双子が誕生した。デジレー&ステラ・ヴィーンだ。

双子は16歳で二人してマラードから消える。姉デジレーは閉鎖的で退屈なこの町に嫌気がさして、妹ステラは性的虐待から逃れるため。そしてステラはある日、姉デジレーの前からも姿を消す。

何年もの時が経ち、傷心かつ行き場を失ったデジレーは娘を連れて故郷マラードに戻るが、過去を捨てて「白人」として生きていくことを決心したステラは白人の夫と裕福な家庭を気付いていた。秘密を誰にも打ち明けることなく。

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人種差別ーーここでは黒人差別ーーをこのような観点で考えたことはなかった。恐ろしく目から鱗な物語。

「黒人」と「白人」が混交を繰り返し、限りなく「白人」に近づいた「黒人」が誕生するということ。彼女たちが生き抜いた1950年代は未だ社会制度の差別化が法制化されており、「白人」として生きていくことを選んだステラを責めることはできない。しかしそれは自分の過去のみならず、故郷さらには家族をも捨てることを意味し、嘘に嘘を重ねて生きていくことの恐怖や不安は、果たしてその人生において、その価値すらあったのだろうか、という疑問が残る。そして彼女たちの娘たちの辿る運命。母親は自分のような人生をおくらせたくないという一心で子供を育てるが、母娘の関係が嘘の上に成り立っている以上は、真の信頼関係を築くことはできない。

シンプルな答えなどないし、一つの論理だけでは解決することのできない人生。すべてはアメリカの人種に基づく構造社会に根付いたものだが、ここに巻き込まれた二人の女性、そしてその子供たちの数奇な人生とは。それでも強く生きていこうとする女性達。しかしながら、自分にとって得策であるということと真の幸せとはイコールではないのだ。大きすぎる代償とどう向き合っていくのか。自分で選んだ人生であるにも関わらず、結局は社会構造にのまれて送るしかない人生とみるか、社会構造を利用して自分の人生を選んだ結果とみるか。いづれにしても、結局人間はやはり何らかの「選択」をして生きていくのだな、と認識した一冊。

この本を読んでいて思いだしたのが、イギリス人コメディアンのフィル・ウァン(Phil Wang)のジョーク。彼は、イギリス人の母親と中国系マレーシア人の父親のもとに生まれたハーフなのだが、彼のジョークの一つに、「もし僕が白人の女性と結婚して子供ができて、ウァンの名字を受け継いで、その子供がまた白人と結婚して、子供が出来てウァンを受け継いで、それが100年くらい繰り返されたあと、どう見ても白人なのに、名字がウァンって、なんで?おかしくね?ってみんな思うだろうね」というのがあった。その時はそのジョークに笑ったのだが、正直私もハーフの息子二人生んでいるし、なんだか他人事ではないような気がしたのを覚えている。息子たちは、こちらでは夫の姓を名乗っているので、彼と全く同じ状況ではないのだが、彼らがどのような人種の人と結婚して子供が生まれても、日本人である私の血は引き継がれていくわけで、もちろん100年もすれば、もうそれが外見に表われることはないだろうが日本人が入っていることは間違いないのだから。

話がズレたが、ロンドンのようなメトロポリタンに住んでいると、人種を認識はすることはあっても、(あくまでも私にとって)それはバックグラウンドのような感覚で、人種そのものよりもその振る舞いや言動から文化的違いを感じるということがある。私はその違いを感じる=知ることこそ都会に住む醍醐味だと思うので、完全同意できない場合でも、一意見として聞くのはとても有益だと思う。そこからまた広がって、ハーフやクオーターだったらなおさらその人の持つアイデンティティーや自意識に興味がある。ちなみに私の夫は半分アイルランド人で半分英国人なのだが、彼のアイデンティティーは「ハーフ・アイリッシュ、ハーフ・ヨークシャーマン」。ポイントはイングリッシュマンではなく、あくまでもヨークシャー出身なのだそうだ。また、父親が白人英国人で母親がスウェート出身黒人の友人(女性)は、自分自身のアイデンティティーは黒人だと言うし、その娘達(父親は白人英国人)も確実に黒人のカルチャーを追っている(まだ若いのでアイデンティティーの確立には早すぎるかもしれない)のはとても興味深いと思う。

そんなことを考えていたら、もしこの作品の双子が現代に生まれていたら、どのような行動に出たのだろう、やはり同じようなことをしたのだろうか、と考える。

このような疑問も含めて、最後の立教大学教授、新田啓子氏の解説がかなり詳しくこの作品のバックグラウンドを説明してくれている。作品自体は本当に頓悟する内容だが、この巻末の解説により、すべての登場人物の思考や行動が裏付けされたように感じる。読み応えのある解説だ。

また、作品中でもう一つの重要な項目は、デジレーの娘、ジュードの恋人リースの性的嗜好である。トランス・セクシャルである彼(彼女)は恋人ジュードを心から愛し、大切な心の支えとなる重要な人物なのだが、結婚をせっつく母デジレーに、ジュードは心の中で「リースに新しい出生証明書でも発行されない限り、夫婦になどなれない」とつぶやく。私の親友の妹がカリフォルニアで同性婚したのが1999年だったのを思い出して、少し調べたら、1999年に同州はドメスティック・パートナー法を可決している。彼女たちは当時このシステム下でパートナーシップを得たと思われる。ちなみにイギリスで民間パートナーシップが合法化されたのは2005年、エルトン・ジョンとパートナーのデヴィット・ファーニッシュが国内で初めての民事式を行ったとのことだ。

いづれにしても、現代は人種的マイノリティー、性的マイノリティーの人たちにとって、少しでも生きやすくなったのだろうか。この作品が描いているのは1900年半ばのアメリカ南部の出来事だけではなく、そのような疑問を今、この現代を生きる私たちに問いかけているのではないか、と思うのである。


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