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自分を呪っていた日々に

恋をしたら人は変わる。
それは愛情を知ってやわらかくなることもあれば、立ち居振る舞いがすべて変わってしまうことさえある。
恋愛をして、私がいつも直面する問題は「没入」。
パートナーの理想を根掘り葉掘り調査して、それを演じ切ってしまうのだ。
それが何年も続いてしまうこともある。天才俳優である。
最初は演じている自分が愛され、心地いいのだけど、そのうち自分が何を好み、何に怒るかさえ忘れてしまう。キャラクターの修正が怖くなってしまうのだ。
だって、愛されないから。

パートナーの愛情を性行為でしか測れなかった頃があった。
性行為の回数や内容で一喜一憂し、求められることこそ愛情だと思っていた。
元々研究が好きだったし、半分趣味化していたこともあり、夢中で数字を追いかけた。
性行為がなくなれば料理に、掃除に、お化粧やファッション。
褒められたくて飲み会では気を回し尽くして疲れ果てた。ステキな女性にデレデレしていても、たとえ浮気されても、寛大なふりをして許していた(ように見せていた)。
当時、他人に求められない自分には価値がないと思っていたのだ。それは、根っこに「自分は、居てもいなくても同じ」という呪いがあった。
自分がいちばん、自分のことを虐げていて、そうすることで誰かに酷い言葉をかけられても、すでに底まで落っこちているので傷付かなかった。
それを強さだと思っていた。
自分がだめなのは知っている。私は思い上がらないぞと。

一人でお酒を飲みにいくのが大好きだった。
知らない土地で、人と出会うのが大好きだった。
それは、一生かけてもたどり着けないだれかの人生を垣間見ることができる楽しさであり、何者でもない自分、「何者にでもなれる自分」という、まっさらな状態が楽しかったのだと気づく。
ずっと何者かになりたかった。
あの人と、あの人と、あの人達のすてきなものをすべて自分に飾りつけたら、それが輝くと信じていた。特別な存在になれるのだと。
常にひとを羨み、尊敬するふりをして自分の影に蓋をしていた。
憧れに近づくため、強さやしなやかさのために、向き合うべきものはわかっていたはずなのに。


本当の自分なんてどこにもいない。自分探しなんて時間の無駄であると気がついたのは、
様々な旅が終わって、実家の布団で泣いているときだった。

だって、ここにいるのがわたしだ。
ひとの真似ばかりして、羨んで、それを隠して人から尊敬されたくて。
どうしようもなく寂しいのに、だれかのまえで泣く勇気さえなくて、ただ理想を演じては現実とのギャップに悩む。
なぜか世の中では、「本当の自分」こそが素晴らしいものであるかのように語られる。
だから、勘違いしてしまうのだ。

「本当の自分」なんて、いちばんダサい。
見たくなかったものばかり。使い古した実家の座布団みたいに、写真映えもしないし、わざわざ誰かに見せたいとも思わない。
こんな粗末なもの、と言って押し入れに仕舞い込んでしまう。
でも、一番落ち着いて、懐かしくて、ときどきそっと眺めては微笑んでしまうような、そんな存在だ。
何も目新しさなんてない。使い古した、見慣れ過ぎて気づかないような。
本当の自分なんて、ずっと目の前にいたのに。
どうして外に出て探そうとしてしまうのだろう。
他人の功績に目が眩んでしまうのだろう。


数年前、当時のパートナーとお別れしたあと、すごく辛かった反面とても安心した。ああもういいのだ、頑張らなくていいのだという安堵だった。
あなたの理想になりたかったけれど、私とは程遠いキャラクターだった(と、思っている。本当のところはわからない)。もっと本音で話せばよかったね。私はあなたの理想になることで、あなたを操作したかったのかもしれない。
自分が思う「パートナー受けする自分」を必死につくりあげていて、
同時に、私が思う「パートナー像」をめちゃくちゃに押し付けていたように思う。年々薄くなってきてはいるものの、現状と理想をすり合わせてはへこんだりして、相手を自分好みに変えることに必死だった。他人なんてコントロールできっこないのに。
自分さえ思い通りにならないから、大好きな人を支配して安心しようとしていた。・・・浅知恵だった。当時の私はとにかく寂しくて、そんな方法しか思いつかなかった。

お別れを済ませたあと、恋人を大切にするように、自分を愛し大切にしていこうとフェイスブックに投稿した。
するりと出た本音だった。
最近マインドフルネスを学んでいて、これは「自慈心(じじしん)」と呼ぶらしい。
ありのままの自分を良い・悪いとジャッジせずに、そのままで認めること。
心を介入させず、事実だけをみつめて受け入れること。
私たちは常に評価の中で生きていて、他人に認められることでお金を稼ぎ、人間関係を構築して生きているように見える。
だけど、他人の評価や、自由に使えるお金だけでは寂しさを拭えない。喪失感から逃れられない。薄めることはできるけど。
結局、他人の思う通りの自分でなければ「失格」となってしまう。
他人に見せる自分は休みの日に夕方まで眠ったり、横になってポテトチップスを食べないし、出てきたお腹は引っ込めるし、いつかの失敗を思い出してこっそり泣いたりしない。こんな考えではだめだと。
甘えている、もっと厳しくしなければならないと自分に迫っては疲れ果てる。横になってポテトチップスを食べていても、体を休めながら脂質とタンパク質と炭水化物を補給しているだけであって、そこに善悪は存在しない。
いちいち良い・悪いと審判をよこしては苛ついている、そんな時間があったら美しい花の名前でも覚えていた方がよっぽど楽しいのではないか。

いつの間にかわたしたちは、自分には使命があると思い込み、価値のある行動をしなければならなくなった。一見生産性のないものごとは、ばかにされるようになってしまった。
自分の外にこそ価値があり、資格を取ったり、仕事に行ったり、休日は遊びに出かけたり。いつもだれかの機嫌を取り、支払いに生きている。
仕事に生かせなければ、カネにならなければ一人前ではなく無駄とされてしまう。
自分の休む場所を疎かにし、休息の取り方を忘れ、当然不調がやってくればカネを払って病院へ行く。ツギハギの身体で今日も仕事へ出かける。

美しさはどこへ行ってしまったのだろう。
夏の暑さは、土の泥濘みは、身体に張り付く潮の香りや冬の刺すような寒さは、誰が隠してしまったのか。
汗をかかず、寒さに震えずとも生きていけるようになった。これは大きな財産であるが、同時に、「どうにもならないこと」「コントロールできないこと」など無いように錯覚してしまう。
体調管理、皆勤賞。全ては自分の手中であり、操作できるのだから怠惰は許さないという圧力。
いきものは、自然は、この地球は、いつからわたしたちのものだったのだろう。この身体を完全に支配していると思うのはなぜだろう。
電気信号によって繋がり、動いているだけの、細胞の集合体。たまたま運良く動いているだけの。それなのに、電気信号の回路ーーつまり考え方、集合体の形、見た目、他の個体から付与された称号。
躍起になって順位を争うほどのことなのだろうか。何十年と時間をかけて。


わたしたちは日々、様々な仕組みの中で生きていくことになっている。
自分がなんだったのかさえ思い出せず、人間が人間を支配しようと躍起になるこの世界で。
やれマイノリティだ、フェミニストだ、右だ左だ男だ女だと、意味はわからないけれど仕切りをつくっては整列させたがる。
権利を求めるならば、苦しみと引き換えるように求められる。目に見える苦しみである。
楽して権利だけもらおうだなんて、と罵倒する場面をたくさん見た。他人の苦しみなどわかるはずがないのに、こじ開けては裁判を始める様はもう地獄で、血が出ていないだけで殺し合っているに等しい。
自分が裁かれたので、それによって傷ついたのだから、自分も他人を裁いてよい。裁くべきだと受け継がれる憎しみには、もう飽きがきてしまったのではないだろうか。そんな憎悪に塗れたバトンなど、受け取りたくはない。

生きるということは素晴らしいか、そうでないかは、自分で決めることだ。
決めてもよいのだ。そもそも、綺麗である必要がない。
そのため、誰かの人生や思想が美しいかどうかは、あなたが決めることではない。それは彼の持ち物であって、侵害していいものではない。
美しく見えるのであれば、そう見ておけばいい。ただ、ものごとはすべて多面体であり、角度によってまったく別の意味を持つことを忘れてはならない。そこには優劣もなく、ただ見ている面が違っているだけなのだ。
人生と呼ばれるこの膨大な時間の旅で、わかっていることは、いつか死ぬということだけだ。それまでの道中で何をするのか。
外に出て誤魔化してきた時間や暇を、どう消化していくのだろう。
きっと、機嫌がいいほうが楽しいだろうとは思う。
悲しみたい人は悲しみ、楽しみたい人は楽しめばよい、ただそれだけのことなのではないのだろうか。

居ても居なくても同じだと、自分を卑下していた頃のわたし。
それはあながち間違ってはいなくて、どちらでもよいのだけど、結局決めるのは自分自身であり、他人ではないよ。
他人にとって自分がどんなものに見えていても、決めつけられても、無視して自分で決めていい。

長い長い、記憶の日記。

まみ

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