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手を振ってみた

某日某所。

或る人が少し先を歩いていた。

ふとこちらを振り返ったものだから、なんとはなしに手を振ってみた。

するとその人もひらひらーっと手を振り返してくれたのだ。


思わず、ときめいた。


いや、きゅんとするようなときめきというよりかは、胸が躍るようなルンルンとしたときめきであった。

きゅんともしたけど。

なんならずきゅんだった。


……要は心が温かくなるようなそんな気持ちになった。




元々手を振るという行為に対して抵抗感があった。


年上や目上の立場の人に対してはもちろんのことだが、どんな相手に対しても自分から手を振ることはどうにも気が進まなかった。

手を振るというのは親愛であったり挨拶であったり、少なくともネガティブな意味を持つ行為ではないのだが、どうしてか私は「失礼じゃないか」、「馴れ馴れしくないか」、「相手が不快な思いをしないか」などとにかく考え込んでしまっていた。

これは自分から手を振ることだけでなく、手を振り返す際も同様だった。
誰かに手を振られた際には、ぎこちなく手を揺らすか愛想笑いをすることしかできなかった気がする。

思い返してみれば何とも愛想のない人間だなと思う。
当時の人、申し訳ない!


しかしながらどうして私はこんなに抵抗感があったのだろう。
たかだか腕を上げて揺らすだけなのに、何をここまでネガティブになっていたのか。

ただ手のひらを左右に振るだけなのに。


(抵抗がある理由はなんとなく分かるのだけど、どうでもいい理由なので割愛しますネ。)




手を振るっていいなって思う。今となっては。

別になにかきっかけがあって考えが変わったわけではない。
緩やかに考えが変わっていったような気がする。
柔軟な思考になったのですね。多分。


手を振ったり振られたりするだけで、どうしてかちょっぴり嬉しい気持ちになる。

冒頭のこともそうだし、それ以外でもそうだ。

例えば帰り際。
またね、と手を振るのは多少のさみしさを含ませつつも今日は楽しかったと思う一瞬である。
つまらなかったら手は振らないよね。いやどうなんだろう、社交辞令とかなんかなああいうのって。

例えば誰かを呼ぶとき。
おーい、って自らをアピールして相手に気が付いてもらう。
あっ、って気が付けたらなんだか嬉しい。
あっ、って思えてもらえたらなんだか嬉しい。
この感覚は私だけじゃないと信じたい。


そう、手を振るって存在のアピールなんですよね。

手を振ることで自己をアピールする。
それを受け取ってもらう=自分を認識してもらえているかのようで、嬉しい。

手を振られることで相手の存在を認知する。
相手を少し知れたようで、距離の近さを感じられたようで、嬉しい。




この記事を書くうえで少し手を振ることについて調べたのだけど、
嫌いな人にはわざわざ手を振らないという意見がかなり多かった。

社交辞令が理由であったとしても、多少なりとも好意があってのことのようだ。

嫌いな人にはせいぜい軽い会釈程度。そりゃ確かに重い腕を上げるよりかは重い頭を下げるほうが楽な気がする。こじつけだろうか。
まあそこまで考えずとも無自覚で行動していることが大半だとは思うが。

ともあれ「嫌いな人にはわざわざ手を振らない」ということには何故だか頷ける。考えてみれば嫌だなと思ったときに手を振ることなんてない。

断定はできないけれど、手を振る・振られるという行為はお互いの距離感あってのことなんだと思う。

だから、心が温かくなるんだ。




これからは積極的といかずとも機会があれば気楽に手を振っていきたい。

あくまで気楽に。あくまで自然に。


どうも手を振る女はあざといと言われるらしい。


たしかに考えてみれば手を振るという行為は性別にかかわらず時として軽率に心を射抜いてしまう行為なのかもしれない。
分かりやすいもので、冒頭の私はいとも簡単にやられている。なんならずきゅんとかほざいている。

なので、私は節度を守って手を振っていきたい。


手を振るのに節度もクソもあるか。




手を振るっていいなって、私はそう思う。

私が手を振ったあの人にも、この人にも

私が手を振られたあの人も、この人も

そう思っていたらいいなと、この小さな幸せが伝わっているといいなと

私はそう思ったわけです。




あざとくはなりたくないけれども、
私も手を振るだけで人の心を射抜くお手振りマスターになってみたいものです。



おわり。


読んでくださりありがとうございます!! ちなみにサポートは私の幸せに直接つながります(訳:おいしいもの食べます)