見出し画像

自分にしか伝えられないことがあるような気がして。

ずっと、ずっと、寂しかった。
自分で考えるしかなく、自分で判断するしかなく、
自分以外に頼れる人が誰もいなくて、
いつも、ひとりだった。

父が死んでしまってからは、
自分が強くなるしかなかった。

ひとりで、強く生きるしかなかった。

今日は、父のことを綴ろうと思う。
きっと長くなる。
描き切れないほどの想い出。
今でも逢いたいって思う、大好きな父との別れを。

そこから、自分の苦難しかない、つらくてしんどいだけの時間が始まってしまったから。


晴天の霹靂。

七歳の秋、
小雨の降る肌寒い日で、当時の10月でもう既にストーブを焚いていたことを今でもよく憶えている。

夕方になってから父と一緒に、庭にいる愛犬にご飯をあげるため外に出た。

フェンスで囲って放し飼いにしていたその愛犬に、扉を開けてご飯を器に移す父。
わたしはその庭で雨に打たれて何だかいつもと違って暗いからはしゃいで踊って、妹は縁側に座ってそれを見てた。

ガシャン!!と大きい音がして振り返ると、フェンスの中で父が仰向けに転がってた。
ふざけてるのかと思った。
愛犬のぺぺも、父にじゃれついてて、
『お父さん、何やってるんだろう』と思った。

でも…
そんな父が目の前で大きないびきをかき始めて、やっと様子がおかしい事に気が付いた。

父に呼び掛けてもガーガーと聞いたことのない轟音でいびきを掻くばかりで反応してくれない。
どうしたら良いのかわからなくて、

誰か!!誰か!!!!お父さんが!!!
誰か助けて!!!!!


そう叫び続けるしか無くて…

なのに誰にも届かなくて、泣きながらキッチンで夕食の支度をしていた母に玄関から叫んで伝えた。

母も何が起きたのか理解出来ず、やっと状況が掴めたときには気が動転し切っていて119番のダイヤルすら回せる状態では無くなっていた。

近所のひとがようやく駆け付けてくれ、救急車が来て、庭に救急隊の人たちがたくさん入ってきて目の前で担架に父を載せようとしたけど、そんな父はまだ意識はあったのかせん妄だったのか…
「オレは…大丈夫だぁ!行かないー!!」
と 暴れて自分の首の後ろを強く叩き続けながら叫んでいた姿が今でも目に焼き付いている。

動き、声を出す父をこの目で見たのはもう、それが最後だった。

わたしと妹は近所の人の家に預けられ、父の運ばれた病院へは一緒に行かせてもらえなかった。
夕飯に、と作ってくれた即席ラーメンも、もう喉が詰まっているように苦しくて食べられず、食べたい気持ちがあっても手が震えて結局は思い切り溢してしまったことさえも忘れられない。
父が今、どうなっているのかが心配でじっとしていられない状態だった。

妹はまだ5歳になったばかりで何もわからなくて、ただただ、近所のおねえちゃんの家にお邪魔してラーメンを作ってもらった事が嬉しくて、無邪気にはしゃいでいた。

*・ーーー・*・ーーー・*・ーーー・*  

何時になっていたんだろう。
伯父がわたしたちを迎えに来た。
「お父さんの病院に行くよ!」と。

やっと会えると思ったから、ホッとして安心して、父の待つ病院に向かった。

着いたところは駅前に新しく出来たと聞いていた整形外科のクリニックだった。
当時のわたしはまだ小学校2年生だったけど、『整形外科!?なんで!?!?』と思って、何かざわざわと不穏な気持ちが止まらないまま伯父たちと院内の階段を登って2階に上がった。

中に入るよう促されてベッドに横になる父の脇へ行くと、信じられない光景が目に飛び込んできた。

咽喉に直管が挿さり、人口呼吸器を取り付けられ、横たわる父の姿…
あまりにも衝撃的で「なんで喉に穴あけちゃったの!!!!」と泣き叫んだ自分を鮮明に憶えている。

父は、ずっとバンドをやっていて、地元では知らない人がいないくらいの、わたしにとっても自慢のボーカル兼サックスプレイヤーだった。

その父の大切な喉が無惨にも穴を開けられ管を直接繋がれてしまっている事実が、悔しくて悲しくて、本当にここに運ばれたことが正解だったのか子どもながらに行き場のない怒りの感情に包まれた。

お父さん!!!お父さん!!!!起きて!!!

父の目から涙が零れ落ちた。
今も忘れない。忘れられないほど記憶に残ってる。



そんな父との対面も直ぐに廊下に出るように指示されて泣きながら処置室を出て、後になってわかったけれど、それが結局は最後の対面だったんだ。

廊下に出されて程なくして、中から母の叫び声と、おじやおばたちの泣き声が耳に入って来た。

何が起こっているのか、信じたくなかった。
わかったけど、絶対に信じたくなかった。

また処置室に入れたとき、
父の顔には白い布が被せられていた。
父がもう動かないことも、わかってた。

横たわる父の手を握って、胸に頬を当てたけど、
握り返してくれることも無くて、
でもそれまでのいつも抱っこしてくれたときと同じ温もりはあって、
もう何がどうなってしまったのか、
自分の頭は何も考えられない、
ただの空洞になったみたいだった。

*・ーーー・*・ーーー・*・ーーー・*  

やっと自宅に戻った父とのお別れに、昼夜、深夜と人が途切れる事なくやって来た。
祭壇には、音楽を愛した父の楽器や楽譜やマイクがずらっと並べられて、なんだろう、もう父は生きて帰らないのを理解はしていても、そこに一緒に居るような気がしていた。

お通夜・葬儀中と父の歌う曲がずっと流されていた。

皆が号泣で、信じられない、と庭に人がひしめいていた数日間だった。

父 = 音楽、だったなぁ…と今でも思う。
それくらい圧巻で、たくさんの人に愛されて、惜しまれて、天国へ旅立った。


父は、たったの36歳で人生の幕を閉じた。



抜け殻みたいな白黒の世界。

父の葬儀の後は天候不順が続いて、
大型の台風が立て続けにやって来たような記憶がある。
膝下まで目の前の道も浸水し、天井から雨漏りが発生してしまうほどで、納骨前の父のいる部屋も洗面器やバケツを置いて、薄暗くて寒くて冷たくて怖くてとにかく落ち着かなかった。

ほんのちょっと前まで、皆んなで仲良く一緒に寝ていた部屋なのに。
こんなに暗くなるんだ、って思った。

学校にもどれくらいの間、行かなかったんだろう。

捨てても捨ててもすぐに溜まる雨水を捨てるのが、とても面倒くさかった。
お父さんがもう居ないんだなぁ…って、そんな事でしみじみと実感するなんて、随分と大人びた子どもだったと今になって思う。

*・ーーー・*・ーーー・*・ーーー・*  

久しぶりの学校が嫌で、行きたくなくて、登校班では行けなくて、暫く母に送ってもらっていたような…
時代だったのかな、まだその頃は誰もが両親揃っていることが当たり前で、普通で、片親の子なんて珍しいほどしかいなくて。

朝の会で先生から皆んなに、わたしの父が亡くなった事と、わたしに優しくするように、と伝えられた。
それが正解だったの?(笑)よくわからない。

元々あまり人付き合いが得意ではなく、保育園から不登園を繰り返していたので、学校も行きたくなかったし、友だちも特にはいなくていじめられっ子だったから、余計なアナウンスをしないでほしい…とすら思った。もっと虐められる、って。

母もその頃まではわたしの話も聞いてくれたけど、だんだん時間が経つにつれ、ひとりで子どもを育てなければ…という焦りやら苦労やらで余裕が無くなっていくのは子どもながらによくわかってしまった。

今考えると、どうして福祉に頼らなかったのか…と大きく疑問に感じるけれど、母の生まれ育った環境や母の性格も重なって、そうした制度がある事も知らず、誰が教えてくれる訳でもなかったようだし、子どもの目から見ても『大きな負けられない意地』みたいなものが母を唯一支えていたように思う。

だから、母の意地が強くなればなるほど、懸命に一人で誰にも頼らず何としても家計を回す事を優先すればするほど、子どもであるわたしと妹はどんどん放置されていった。

働く事で紛らわせたかった、と最近になって当時の想いを打ち明けられた。

わたしたちは、おにぎり一つを三等分したものだけでも良かったのに。
お母さんが居てくれれば、それだけでも良かったのに…

妹も「お母さん…お母さん…」と泣いてばかりで、なんとか気を紛らわせてご飯を作って食べさせて、お風呂を焚いて二人で入って寝る。
妹が夜中に泣いて起きても、おねしょをしても、わたしが宥めて寝かしつけて。
寝不足で朝起きても母が居ないことも当たり前だったし、居たとしても起きてはくれず、妹を保育園へ送るまで寝ていたようだし、朝ごはんも何も準備してくれるわけでも無いし、自分では学校の支度をするだけで精一杯、結局何も食べないまま30分歩いて学校に通う。

放課後は友だちとは遊べず、遊ぶには家に帰って洗濯物を入れてからでなければダメだった。

保育園に妹をお迎えに行って一旦家に帰って来る母も、父が亡くなる少し前から保険の外交員の仕事をしていたことで稼ぐに必死、夕飯の支度もせずにそのまま『夜訪だから』と車で出掛け、再び居なくなってしまう。
いつの日か、夜の仕事も始めていたようだし…

毎夜、毎夜、いつ母が帰ってくるのかさえわからない日々がずーっと続いた。

*・ーーー・*・ーーー・*・ーーー・*  

当時のわたし、小学校2年生。
たったの7歳だったよ。
よくやってたな…って思う。
お母さんがいつも居ないだなんて、誰も知らなかっただろうし、思いもしなかったと思う。
親戚も、近所の人たちも。

生活保護を受けてでも、
少なくとも母子手当てなど普通に受けてくれていたら…
そして、お母さんが一緒に居てくれてたら…

あの頃の自分を思い返すたびに、
そうであったらどれだけ良かったか、と
今更ながらに望んでしまう。

一体、なにが正解だったのか。

もうその時から、
わたしの生きていく軸はどんどん狂っていった。

*・ーーー・*・ーーー・*・ーーー・*  

今、ちょうど外であの父の亡くなったあとのような強い雨の音がしている。
今夜もまた、眠れなくて。
父のことを思い出しながら、秋分の日を迎えた。
自分の数奇な天命も、頭がクラクラするくらい過酷すぎて、今夜もまた眠れないまま朝になる。


長い長いひとりごとを
今日も最後までお読みくださり、
どうもありがとうございました。

こうしてまだ綴っておきたい話を長文で書き殴っていくと思います。
よかったらまた、覗いてみてくださると嬉しいです。

Thank you so much.


この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?