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番外編:「好き」と言い切れない、でも、認めてあげたい。

わたし自身のこと。

好きではない、わけではないんです。
嫌い、まではいかない。

そう書くと、なんだかファジーだなぁ。

好き、とか。
嫌い、とか。
ではないのかな。

認めてあげられない。
赦しを与えられない。
自分に。

そんな強くもなく、向上心があるわけでもない。
なのに、「強くいなくては」「まだまだだ、こんな自分じゃダメだ」って思ってしまう。

何なんでしょうね。

割と最近気づいたのは、「失望されるのが怖い」ということ。
(半世紀近くも生きてきて、今更気づくとか!)
だから、失敗体験に弱いんです。
失敗する、ミスをすることによって、誰かに・・・特に身近なひとに失望されるのが怖い。
実際にはそこまで怒られることも、咎められることもないのに、「今、相手はわたしに対して失望したんじゃないか?」と深読みしてしまう。

だから、本当の本当に苦しんでいることも、自分がそういう状態にあることも、ひとに言えない。
近しければ近しいほど、言えない。
そのせいで飽和点に達してしまい、消えていなくなってしまいたい、全部終わらせてしまいたいとさえ思ってしまう。

自分が苦しく、つらくなったときに、誰かに「ありがとう」と言ってもらえる行為をするのは、こんな自分の性分?考え?の裏返しというか。
救いを求めてのこと、というか。
陳腐なやり方なのかもしれないけれど、でも、それぐらいしか思いつかない。

いつも、いつも、自分の存在意義を探しています。

でも、実際にはそんなの探さなくたって、「生きている」それだけで素晴らしいことなんだろうな。

noteに毎日ひとつ「好き」を探して綴っているのは。
自分への言い聞かせなのです。
「ほら、こんなに好きなことあるじゃん! 生きているって素晴らしいじゃん! 世の中、捨てたものじゃないでしょ!」って。

故・樹木希林さんは、こうおっしゃっていたそうです。
『私は人生をなげいたり、幸せについて大げさに考える事もないんです。
 いつも「人生、上出来だわ」と思っていて、物事がうまくいかないときは「自分が未熟だったのよ」でおしまい。
 人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前。
 一切なりゆき。
 おごらず比べず、面白がって平気に生きればいい』

・・・ああ、わたしは幸せを大仰に考えすぎているのかもしれない。
と、思いました、この文章を知って。

若い頃から「幸せに貪欲に!」と思って生きてきました。
それが日々のモチベーションになっていたから。
しかし、そろそろ違う方向から幸せを捉えてみるといいのかもしれない。

と言いつつ、「好き」を綴るのはやめないんですけどねー。
人間、そう簡単に性分は変わらない。
それでもいいじゃないか、それがわたし!
認めてあげよう、そんなわたしで生きていこう。

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