ありのままの自分を愛するなんて、到底できない
なにかしなくちゃ。いまのわたしを急き立てる正体はこれだ。
こんな自分になりたい、だけど遠すぎる。だから一生懸命、努力しなければいけないのに、今日もなにもできなかった。
なにをしているんだろう。なにをしていたんだろう?
こういうわたしの焦燥感を見抜いてか、あらゆる媒体がわたしに情報をレコメンドしてくる。
それは二種類に分かれる。ひとつめは、「自分はこれで成功したから、あなたもやってみるといいよ」系。もうひとつは、「ありのままの自分を愛すればいいんだよ」系だ。
前者については、さすがにわたしも慣れた。
疲れ切ってなにもできない時は、そういう情報から離れるのが吉だ。
いまの自分とまったく同じ環境でもなければ、まったく同じ価値観を有している訳でもない成功者をうらやんだって仕方がない。
あなたはそれで成功したのね、すごいわね、と一言ほめて、そっと閉じるボタンを押すだけだ。
しかし、後者については、扱いあぐねていた。前者を否定するとき、出会う情報は後者に寄ってしまう。
これは一見、ものすごくやさしい世界に思える。
だけど、どうしてもスパルタ教育を受けた昭和脳のわたしが茶々を入れる。
いいんだよ、そんなに成長ばかりを追い求めなくたって。その「成長」のせいで、苦しい思いをしてるんじゃん。
だから、その考えがもう古いんだって。無理してがんばって、周りに当たり散らしたり(してないけど)、メンタル病んだりするよりは、いまある日常を愛すればいいんだよ。それが、ウェルビーイングでしょ。
……。
だから、わたしには、できない。
ありのままの自分、いまの自分、情けなく、なにもできない自分をそのまま受け入れて、それでいいよと言って、いまあるものに感謝して、日々を穏やかに過ごす、それが幸せのヒントに繋がるかもしれないという知識はあるのに、どうしたって選べない。
いまがんばれば未来は明るいはずという幻想が、どうしたってぬぐえない。その成功体験から抜け出せない。
ここまで書いてはじめて気づいた、わたしは「楽になりたい」のではなく「楽しく過ごしたい」のだ。将来、楽しく過ごすために、いま、がんばるのだ。
過去の記事で、(我ながら)なかなか良いことを書いている。
わたしは計画の不安に苛まれているのだ。それは決して、「いま」の否定にはならない。
不安なときは、いまに集中する。そうだそうだ、それしかない。
わたしには、ありのままの自分を受け入れ、愛することはまだできないけれど、いまに集中し、感謝しながら努力を重ねることはできるかもしれない。
そうして、いまを犠牲にせず、未来のためにがんばれる自分でいたい。
そのためには、不安に飲まれすぎないこと。がんばれるコンディションでいること。
だいじょうぶ、がんばる自分が好きなんだから。そういう意味で言うと、「がんばる自分」というありのままの自分が好き、なんて言ったら、本旨と違うと怒られるだろうか。
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