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初めてホームレスに会った子どもに、何を伝えるか

子ども2人を連れてその電車に乗った時、すぐに異臭が鼻を突いた。

こちらは、ベビーカーを押している。休日の朝8時、車内はガラガラだ。とりあえず、優先席付近まで行こう。6歳の子の手をひっぱり、ズンズン進む。すると、終着点である優先席に、その人は、いた。

わたしは、誰に対しても平等でいたいと思っている。深層心理では差別感情があるかもしれない、それは自分でもわからない。だけど、いや、だからこそ、わたしが認識できる限りにおいては、誰に対しても平等でいようと努めている。

だけど、臭いが、だめだった。ずっとそこにいると、めまいがしてきた。次の駅で車両を変えよう。6歳の子にそう告げる。すると娘は、「どうして?」をグッと飲み込んで、短く相槌を打った。

次の駅で車両を変えると、先ほどまでの刺激が嘘のように、クリーンな環境が待っていた。この車両の人たちは、すぐそこの連結部を隔てた先で、ホームレスがうなだれていることを知らない。すがすがしい、休日の朝だ。

電車が走り出して、娘はようやく「どうして電車を変えたの?」とわたしにきく。

わたしは、「いいから。」と言って、その疑問を丸め込むこともできた。母親のただならぬ様子を察知して、娘はきっと、追求を諦めるだろう。でも、これが正解だろうか。それは、この車両に乗っている人を量産することになりはしないか。「何も知らない幸福なひと」。



わたしは、子どもたちに、目をふさいで生きてほしい訳ではない。その幸せは、かごの中の幸せと似ている。持ち主が変われば天と地が揺らぐほどの、安定感を欠いた歪な鳥かご。

常々、わたしは子どもたちに対して「この子たちは、恵まれてるなぁ」と思っている。まず、子どもたちは、そこそこ裕福である。そして、親も、比較的教育熱心だ。疑問には大抵応えてもらえるし、いろんな体験をしてほしいと願われている。そんな「恵まれた子ども」が、自分たちの幸せだけを願う、それでいいのだろうか。そんなちっぽけなことのために、わたしは子どもを育てているのだろうか。

子どもたちには、義務がある。そうやって育てられた身として、自分の幸せだけでなく、他者の幸せを視野に入れる義務。もちろん、押し付けてはその子の負担になる、わかってはいるものの、潰れない範囲で、その責務を果たせる子になってほしい。

そのためにわたしができることは、地の果てまで伴走すること。わたし自身が、その責務を果たすこと。

「電車から降りたら、教えるね。」



目的地に着くと、子どもはモジモジした。自分から聞いてはいけない、深刻な話をされるのかもしれない、そんな気配を漂わせていたので、わたしはわざと声を高くして、「さっきの電車、入った時、なにか感じなかった?」と尋ねた。

子どもは、「うん」と答えた。「どんな感じだった?」というと、「変なにおいがした。」

「どんなにおい?」
「お風呂に入ってないにおい。」
「電車の中にさ、雰囲気がみんなと違うひとがいなかった?」
「うん、いた。」
「どんなひとだった?」
「お洋服を、洗濯していないひと。」

ああ、6歳の子は、あの一瞬で、こんなに世界を理解できるんだなぁ、と身の引き締まる思いがした。これは、ごまかしたりせず、しっかりと現状を伝えた方が良いと思い、

「あのおじいさんはね、おうちがないひとなんだ。」

娘はおもいっきり目を見開いて、「おうちがないの!?!?」と驚いた。

「ちょっとしたことで、おうちがなくなっちゃう人がいるんだよね。けっして、その人だけのせいじゃないんだよ。変な目でジロジロ見たり、あの人クサい!って大きな声を出したらいけないよ。そんなこと言われたら、人間は傷つくよね。そういう時は、そっと自分から、距離を取ろう。そして、大人になったら、その人だけじゃなくて、どうしたらそういう人みんなを助けられるか、考えてみよう。」

どこまで話せばいいかわたしもわからなかったので、すべて話した。子どもは案の定、わかったような、わかっていないような返答をした。でもきっと、彼女なりに考えていることだろう。なぜって、子どもは、一瞬で世界を受け取る生き物だから。

わたしにも、覚悟が必要だ。常にわたし自身が、世の中のためにできることを考えること。わたしの子どもだけではなく、いろんな子どもの幸せを考えること。

わたしにも、やりたいことが見えてきた。それを、子どもの幸せという形で、いつか還元したい。そして、願わくば、その背中を子どもたちが見ていてくれますように。


#ウェルビーイングのために


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