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「優秀さ」勝負から降りたくなったら

つかれた。だれもいないところに行きたい。

会社のスピードに着いていけなくなった第二子出産後のわたしは、SNSを見るのもいやで、そっとスマホを置いた。
そこには、わたし以上に優秀な人物がゴロゴロ存在していた。

会社にも、ネットにも、わたしの存在価値はないのか。



なぜ優秀さに惹かれるのか

「優秀さ」を表す言葉はたくさんある。

経営者、管理職、TOEIC、留学、学歴……。
それらは定量的に評価可能な、誰もが認める素晴らしい実績だ。

そして、誰もがそのステータスに昇り詰めることを要求されていた。
画一的な目標、あるべき姿、最終到達地点。そうなるようにわたしたちは教育を受けたし、雑誌やメディアに導かれた。

でもわたしは、そうはなれなかった。

努力はしたんだけど、がんばればがんばるほど苦しかった。能力不足、キャパオーバーだ。
かといって、子どもの相手をしない、家を散乱状態にしておく、ベビーシッターや家政婦を雇う、どれもわたしには選べなかった。

世の中には、仕事と育児を完璧に両立させているひとだっているのに。わたしはなんて情けないのだろう。



第二子出産後、ついていけず

子どもを産む前は、期待も評価もされていた方だと思う。
難しいPJに入って、何度も出張に行った。自分はデキるんだ、という自己イメージが形成されていった。

第一子出産後も、管理職を任される程度には、ギリギリ仕事ができていた。

しかし、第二子出産後は仕事をしていても「これでいいのかな」と思うことばかりだった。
度重なる子どもの病欠、テトリスのような予定や提出物、夫単身赴任による完全ワンオペ育児で疲れ切っていたのかもしれない。

わたしは急に休むし、16時30分には上がってしまう。

子の病欠が続きそうな時は実家の母を呼び寄せて在宅勤務にしたり、冷凍のお弁当や生協のミールキット、家事代行サービスを使ったりした。

けれどもそういったわたしの努力は外からは見えず、会社は良かれと思って、わたしから重たいPJを「遠ざけてくれた」。


理解できるのだ。わたしの負担にならぬよう、子ども第一優先で働き続けられるようにみんなが配慮してくれた。なんてありがたい。



でもわたしは考えてしまう、


「これではキャリアが積めない」
「そうだよね、16時30分に退勤して予測不能に休まれちゃ、重大な仕事は任せられないもんね。」


事実だ。わたしはいま、責任のある仕事をするべきときではないのかもしれない。
だけど、どんどん曲解してしまう。


「後輩が昇進した」
「独身の若い子はいいなぁ」
「子どもを産むのを遅らせるべきだった」
「わたしってお荷物?」



敗者は下山する

わたしは、評価されたかった。だって、その経験があるから。だれもが目標とする到達点に、一度はたどり着いたのだから。

だけどいまの自分では、その評価の対象にすらならない。環境を乗り越える能力もない。
努力でカバーしたくとも、ワンオペ育児下ではその時間が捻出できない。


つかれたな。わたしは「優秀さ」という頂点を目指して、8合目でリタイアしたんだ。

登山道の下を見やると、たくさんの人が登ってくるのに気づいた。
みんなわたしのことなんて眼中にない。
首を垂れて、一歩一歩踏みしめながら登っている。足元に滴る汗。

ああ、あなた方はこれから山頂を目指すのですね。いいなぁ。うらやましいなぁ。



わたしの価値とは

トボトボと下山していたわたしに、ヘリをよこすから急いでふもとまで来いという指令が下りた。

夫に海外赴任の辞令がわたったのだ。わたしは仕事を辞めることになった。

育休復帰後1年にも満たないタイミングで、しかも、部署の人間は半分以上入れ替わっていたため、産前のわたしとかかわりのある人は少なかった。

それでもたくさんのひとが、仕事を辞めると聞いて声をかけてくれた。




なんのためにあんなに評価されたかったんだろうな、と、胸の内でつぶやく。

なぜ、優秀さを目標としていたか?
それは定量的に評価可能な「しあわせ」の定義に感ぜられたからだ。わたしという人間が「いてもいいよ」と、誰からも言ってもらえる気がしたからなのだ。


でもわたしには、話がしたいと言ってくれる人がいて、わざわざ会いに来てくれるひとがいる。
それでいいじゃないか。わたしはなにも優秀さにこだわらなくとも、自分の好きなところ、良いところを、同じように「好きだよ」と言ってくれるひとがいた。




優秀さ勝負から逃げて

いま、わたしは「優秀さ」という世界にいることを諦めている。完全に「逃げ」である。

なんとでも言ってくれ。とにかくわたしは、その山からは下りたのだ。

それでも、存在意義がほしい。どうしたら、自分で「ここにいてもいいよ」と思えるのだろう。




自分の好きなところを磨く

わたしはいま、「自分の好きなところ」で勝負をしてみよう、と考えている。

わたしは自分の感性とか、優しさとか、それでいて会社のひとをして「ジャックナイフ」と言わしめる線引きのうまさとか、そういうところが好きだ。

好きなところは得意なところでもあるから、生きているだけでどんどんアンテナにかかっていく。アウトプットをすれば、さらに磨かれる。

そして、「優秀さ」だとどうしても他人を意識してしまうけど、「自分の好きなところ」であれば、意識すべきは昨日の自分だ。

しかも、勝ち負けや出し抜く、といった感情はなく、純粋に、良い自分になれたという満足感だけが残る。なんというエコサイクル…!




優秀なひとはごまんといるけれど

これはSNSを始めて実感したのだけど、アルゴリズムにより山の頂にいる方々を知れるようになった一方で、ふもとにいるわたしのような者と出会ってくださることは、一期一会の奇跡ともいえる。

わたしは優秀さでは負けるし、わたし以上に良い文章を書くひと、良いサービス(気づきだったり、学びだったり)を提供しているひとはごまんといるだろう。

でも、ふしぎなことに、これを読んでらっしゃるみなさまがたは、わたしと出会ってくださった。

それで「いや、わたしなんて、なにもできませんし……」というのは、謙遜を通り越して失礼な気がする(他の方がこうおっしゃるのを非難する意図はないです)。

だから、優秀さ勝負からは下りて、自分の好きなところで勝負する。これはネットの世界でも、会社員に戻っても、そうだ。

会社員時代、わたしはたしかに責任のあるプロジェクトを担当できる器ではなかったけど、環境が整いさえすれば、またそこに戻れるのだということを、わたしと会話したいと言ってくれたみんなが証明してくれた。
これは、退職時の色紙に書かれた言葉たちよりも信ぴょう性のあるものだと思う。


だからわたしは今日もつぶやく、「これとこれを繋ぎ合わせて考えてしまうなんて、天才ではなかろうか」。そう、これでいい。

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