見出し画像

わたしの人生はわたしのものじゃなかった #1 父の生き方

(1)
毒祖母は、自らの命より、墓守としての役割を最重要としている。
毎日、祖父の仏壇に、お茶と煮物?を備えることは絶対で、自分が何を食べたいとかよりも、仏壇に供えるものを優先している。歳とって、無気力で何も食べたくない日でも、自分に鞭打って、供え物のために料理を作り、「食べなあかん」といいながら無理やりご飯を食べている。

春と秋のお彼岸やお盆は彼女の繁忙期だ。墓参りに行くことは絶対で、どんなに体調が悪くても、プルプル震えていても行こうとする。別に自分の中だけでの葛藤とかならいいのだけれど、お花がどうたら、お供え物がどうたら、「○○でなければならない」と父や母にも命じているし、孫であるわたしに対しても、墓参りに行けと命令してくる。その地縛霊のような激しい執着心。

この秋、私が仏間で、たまたまじっとカレンダーを見ていたら、何も言ってないのに、「あと2日でお彼岸だから!!今からお供え物とお花を用意しなあかんで!!!」と、まるでわたしが用意するかのように息せき切って必死に訴えてきた。その必死さと、めちゃくちゃ息が臭かったのにわたしはドン引きして、その場に凍りついてしまった。


(2)
そんなわけで、今年の秋の彼岸、わたしは体調が悪いのにも関わらず、父に言われ、墓参りに行くため、無理やり父の運転する車に乗っていた。(※体調がよければ、彼岸には自主的に墓参りに行くぐらいの意思はあった)
でも、この時のわたしを動かしていたのは恐怖だった。もしも行かなければ、毒祖母の監視と「なぜ行かないのか?」という叱責が始まる。そんなことをされるのはもううんざりだった。

父と二人きりの車内で、わたしはつい、かなしくなって、彼に聞いた。
「おばあちゃんが言うから? あばあちゃんのためにわたしを墓参りに行かせるの?」
父は「そういうわけじゃないけど……」などと、いかにも締まりのない感じでゴニョゴニョ言っていた。
これまで、父と接していると、いつも『見捨てられた』という感じがあった。それがどういうことなのか、説明がつかなかった。
でも、その時やっと、長年の謎が解けた。
こいつは、今までずっと、祖母にわたしを売っていたのだ。


(3)
たまに、思い出すことがある。
その時も、車に乗っていた。
膝の上には、精神科で処方された眠剤の入った小さなビニール袋がのっている。
折りたたまれた紙の袋の口を開けて中身を確認する。それは透明な赤いプラスチックの容器に入っていて、なんだか、幼いころ遊んだ、”女児のおもちゃ”を思い出した。匂い玉とか、ビー玉とか、きれいなだけで何の役にもたたない、そんな類いの。

父は、いつも、運転席で無言だった。
わたしは後部座席から、日に焼けた父の、頬のラインを見るともなしに眺めた。
午後2時、外はまぶしいぐらいの光で満ちている。
それなのにわたしは妙に気だるげで、底なしに心もとなく、そして表面上はひたすらにぽかーんとしていた。魂を、ぬきとられていたのだ。

わたしはその時、中2で、不登校ぎみだった。
ほんとうは、学校になど行きたくはなかった。勉強は嫌いだったし、それより、生きてる意味がわからなかった。
当たり前だ。そもそも、わたしの父自体が、祖母に人生を捧げる生き方をしていたのだ。
祖母や、世間様へ向けられた、何の中身もない、空っぽなだけの、怒りに満ちた父の人生。
そんな生き方を無意識にコピーして、空っぽのまま生きてきた。

「思春期のうつ病は、家族が原因です」
主治医の先生は、眉をハの字にして、困ったように母に告げた。
母は、クソババアのくせに、その場に不似合いなほどキャピキャピしだし、
「え〜? じゃあわたしのせいなんですかあ〜?」などと言っていた。
事の重大さが、この女には分からないのだ。
母は、現実を生きてなかった。いつもお花畑にいるような、頭の弱い女だった。すでに親に魂を抜き取られた後の、抜け殻のメンヘラだったのだ。


(4)
あの時、頬に当たる風も、外の匂いも、いま生きているってことも、わたしの存在も、わたしにとって、すべてがどうでもよかった。
わたしは、ガラスの目をしたお人形みたいに、晴れた日、後部座席に乗せられて、どこかに運ばれていた。わたしに意志はなかった。自発的に生きていなかったから。

わたしは、お人形だった自分を、泣くことすらできないぐらい、心を殺され、感情を壊され、鎖につながれて閉じ込められていた自分を、だきしめて泣きたい。ただ、なきたい。

もし何かこころに響いたら、ぜひサポートをお願いします ╰(*´︶`*)╯♡