見出し画像

日記1月17日。 #日記

「一」の真理は「無」にして「多」と言えるであろう。その場合、「多」は「一」の多彩であり、「一」は「多」の一如でり、そしてそういう動的関係そのものが、「無」の具体なのである。
非神秘主義 : 禅とエックハルト
上田閑照著 P.7

すべては「一」である、が事実だと確信しているのだが、そのことをことさら皆さんに強弁する気持ちはない。

ただ、「一」をいうと、この世界の眼に見える多彩さが疑問としてわきおこり、「一」じゃあないんじゃないの?ということになるように思うので、その時に考えるヒントとなるのが上掲した上田閑照の一文だ。

別に「一」という神がある、と言いたいのではない。そうとも言えるし、言わなくともよい。結局みんな根っこはおんなじ、時間も空間もあるようでない、ないようである。こんな感触にいる。

まあ、あたりまえと言えばあたりまえ、説明するより感覚的なものなのだが、その感触を持っていろいろな書物を読んでいると、同じように感じている人が結構いる気がしている。

ただし皆さんもごもごと、別に強弁していないが。。

西欧社会でみなされた近代憲法には、集会・結社・言論・出版などの自由が謳われている。一見するといろいろな種類の自由に見えるが、歴史的な淵源をたどってみると、これはみな同じ一つの自由に帰着する。それが「信教の自由」である。たとえば「言論の自由」とは、もともと宗教的な言論の自由のことだった
 森本あんり 不寛容論より

今日は引用がおおくなった。

なにかを信じること、この信じる、ということに”無理やり、盲目的にそういうことにとりあえずしておく”という意味を込めずに心から”信じている”に在る、という前提で信じている場合、宗教だ、神だ、仏だ、というのは我々日本人にはたぶんしっくりこない。

真理、真実、というスタンスがいいのかもしれないとおもうが、いずれにしろ森羅万象、いまたまたま、奇跡的に”生を享けて”いる我々は、なにをどう考えればいいのかな、という心の底のギモンを(意識していなくとも)皆さん持っている、という気がする。

その時に、足掛かりになるもの、考えのベース、みたいなものを、日本以外の地域では”神”や”宗教”と称することが多いが、本邦ではそう呼ばない、ということだと考えている。

まあ、なんとよぶかわからない、その前提、みたいなものが、私としては「一」じゃないかなあ、と思っております、ということである。

それだから、どうした、とお聞きいただくと、いや、別になにも、とお答えするしか、ないのであるが。。

(WEBで世界の意識の共通理解が進むと思います。時間はかかるでしょうが、将来は国、というくくりの重要性は下がるだろうと思います)



この記事が参加している募集

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。