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日記1月20日。 #日記

寛容、とはなにか。

おおらか、許す、懐が深い、ざる。

いろいろあるが、この世ですごすなかで、結構重要度が高い態度であろう。

なめられる、でも個人的にはいい気がしている。

(舐められたくないのなら別。)

だが、私が思ってきた寛容、とは、レベル感が違う寛容があると気づいた。

もともと好ましいものは寛容の対象にならない。嫌いなものこそ、寛容にすべき対象なのである。だから寛容は、常に不愉快な事柄を論ずる「不愉快な問題」である。
ウィリアムズが繰り返し強調したように、プロテスタントであろうとカトリックであろうと、ユダヤ教徒であろうとイスラム教徒であろうと、あるいはそのどれでもない無宗教者や無神論者であろうと、最低限の礼節をお互いに守ることができれば、ともに一つの社会を形成することができる。

  不寛容論 森本あんり より

宗教での対立が、あまりというかほとんどないこの国では、例えば同調圧力などがいまだ力を持っている。"和”ということばが使われることがある。いい意味の時もあるが、同調圧力強制の時もままある。

(私がそうしてほしいから)和ということでそうしておけ。

こうなると、”寛容”からは遠い世界となる。

和、ということは、違和感を認めない、ということだから。


宗教対立は基本まとまらない。まとまらないことをスタートに、”お互いをむりやり、いやいや、仕方なく”我慢しましょう、というのがここでいう”寛容”だ。

これは困難だ。この態度を採用することは、つまり”いやなことを我慢する”という行為とほぼ同じだからだ。

でも、それしか突破口はない。

そういうところに、かの国はある、ということを学んだ。

(他国のことは、やはりその歴史や肌感覚含め、なかなかわからないものですね。。)

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