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9.19 親にしんせつなわたしのせがれ

今朝の体重は64.8kg、体脂肪13%と出た。

だいぶなまっている、というか運動が不足している気がする。やはり体重のベストは今の筋量であれば63キロくらいだろうか。

1953年刊、片山廣子晩年の随筆集、燈火節あとがきから引く(使用したのは復刻版)。

もう二十何年か前、昭和の初めごろ、私は急に自分の生活に疲れを感じて何もかもがいやになってしまった。それまで少しは本を讀み、文學夫人といふやうな奇妙なよび名もつけられてゐたけれど、そんな事もすっかり縁をきつて、ぼんやりと庭の草取りなぞをして日を暮らすやうになつた。

P.246 月曜社刊版より

研究書などを読むと、確かにこの間の廣子は、わずかに歌を詠んだり、選者となったりということはあったようだが、文章を発表するということはほとんどなかったようだ。

戦争や様々な身近な人との別れなどが精神にこたえたのであろう。

越し人、とも呼ばれた芥川龍之介との、彼の自死による突然の別れがやはり大きかったであろう。

親にしんせつな私のせがれは、草とりは草取り婆さんを頼みなさい。そして毎日少しづつ讀書することですね。それから一週間に一度ぐらゐ映画を見たらどうです?と言ってくれた。

同書、同ページ

言葉というものは生き物で、その時の普通の気分がふつうに選ぶ言葉に出てくるものだ。旧仮名遣いにしてもそうで、見るとその内容とは別にその時代の空気を嗅いだ気がする。

「草取り婆さん」にしてもそうだ。今の語感では、そもそも草を取ることを専門で人力に頼る、という発想がないだろう。専門でそうした人を雇い、それが「婆さん」のみが従事する仕事としてイメージされる時代に、あるいは今の人は目を顰めるかもしれない。

だがそれが1953年の空気であり、あるいは女性の地位が低いことを悲しんだ廣子のそこはかとない意地の残り香のような気持ちもするのだ。

親にしんせつなせがれは、終戦の数か月前に心臓病で亡くなった。短歌というものに私はほとんど接していないが、そして日々の出来事を連続した短歌に託して表す、というのはあるいは一首のみを鑑賞するものだ、と思っていた私の短歌観を覆すものでもあるのだが、

芥川自死のことを知らされたときの短歌と合わせ、45歳の息子の死去を知らされたときの短歌を見て、これがいわゆる散文であったらどういう感じをうけるだろうか、と思ったのだ。

悲しみと驚きの極限にいるだろう。もちろん聞いた瞬間は驚きの強さに呆然とするのだろう。だがそこで短歌が詠まれる。もちろん詠むことができるだけの気持ちの整理の時間を経てのことだろうが(それが長い、短いと他人がいうのは詮無きことだ)、とにかく自身の心を客観で見るもう一つの心がある。歌詠みとはそういう心を持つことを、持つひとのことをいうのだ、と端的に感じる。

廣子の長男、片山達吉は昭和20年3月24日に亡くなった。廣子は67歳であった。1953年の燈火節発売の8年ほど前のことになろうか。現世では手に取って読むことはできない息子にあてて、廣子は筆を進めたのであった。

(随筆であればもう少し客観的ではない、自身の主観から出てくるもののように思います)


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