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日記12月28日。 #日記

最終出勤日となった。

家族を送って山梨へ行った。愛知県から中央道を通って約260KM、道路は空いており、天気も良く雪も降っていなかったので助かった。

私は地図が読めない、と前にこの日記で書いたが、正確には”地図を読んだり、覚えたりする労力を割く気が起きない”というべきだろうか。ゲームと似ていて、人間の持つ能力のキャパシティは一定の範囲にあり(もちろん個体差はあるが、ぶれの範囲で)、ある能力や熱意(これは相互に関係している気がする)がある方向に振れていると、その他の能力が欠ける、あるいは不足する、ということになっている気がする(私的意見です)。

理系、文系、計算能力、暗記力、読解力、イコールの項目ではないが、それぞれどれかに偏って高い、ということがあると、それに相対する能力は低いという感じではないかと思っている。

もちろん必要性に応じ、ある能力を高めようというニーズが上がる(これを指して訓練、あるいは学習というのでしょうが)と、本来苦手である項目もある程度のレベルには(後天的に)持っていけると思う。

平均的な能力を、ほぼすべての同世代の人間が持つようにしよう、というのが今の日本の教育の根本理念であるだろう。それに対して、人間を単なる労働力、社会のいわゆる”歯車”化しようとするものだ、とし、個別の能力を個別で伸ばすべき、という意見もあるだろう。

後段の方法は、いわゆる”エリート教育””英才教育”と揶揄され、コストがかかる理想論、と考えているのが、今の日本の本音だと考える。

ただ、あまりに特化すると、ほかの”画一化された日本スペックの人々”と差異が顕著すぎて、”あうんの呼吸で””単一民族としての所作で”生きることが困難になり、息苦しさを感じ、日々の生活が楽しくない、というようなこともあるかもしれない(=国外脱出)。

日本にいると日本語のみで生活でき、英語のニーズが実感できないことが、日本人が英語を喋れない一番の理由だと理解しているが、上記のケースでは逆に日本脱出のパスポートとして、多国語(今は英語ではなく中国語もあるのかもしれないが、漢字は繁体語や簡体語、香港、台湾の違いもある点はちょっと面倒)を学ぶことにモチベーションが上がるのかもしれない。

地図を読む気がしないことと、英語を学ぶ気が起きない、ということとは根っこがすこし似ている気がする。つまり、なにかの必要性をそれほど感じない、という点で。

実際に住んでいる土地の地図に興味がないのは、住むにあたってその情報が必須だ、と感じない気質であるのだろう。私はこども時代からインドアが大好き、外で遊ぶより、本の世界で遊ぶ、というタイプだった(今も運動と言えばジム、つまり個人の肉体との会話だ=ジム友は皆無)。なので、外界は恐ろしいところ、できれば出ていきたくないところ、という感じだったのだろう。要は”怖がり”ですね。

今は今回のように他の地区に移動することも多いが、基本ナビや電車アプリに1000%頼っている。自らは全く考えない。

例えばバックパック、自らの想いのまま、行き先を決めず、自らの為に旅行する、ということになったのなら、今よりは考える気はする。だがたぶん必要最小限となるだろう(主に場所の変化を楽しみ読書、とかになりそう)。

まあ、三つ子の魂100まで、という箴言の意味とは、魂に刷り込まれたスペックは変わりまへんで、ということなのだろう、と

今は感じている。

(東西南北、わかりません。太陽の上がる方向は、いまだに天才バカボンの歌を思いだしてから、それを逆にして思い出しています。。もはや意地というか、持ち芸的になっています。。。)


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