日記12月31日。 #日記
大晦日だ。
独りであれば大掃除はたぶん全くやらないだろうし、普段から整理整頓できるわけでもない。ぐちゃぐちゃの部屋だが、これはいかん、と全く思わないし、これは老後一人になったりするとゴミ屋敷まっしぐら、という気がしている。
ゴミ屋敷とは、他人の目線がない場所だ。あるきっかけでそれが世間の目に触れると、いったいどうなっているのか、という評価を世間から受けることにはなる。
その時本人はあまり関係がないところに居ると思われるが。
だが、そうした心理ハードルを(大概は他者からの働きかけで)超えて掃除などをした場合、すがすがしい気分にはなる。ああ、掃除やらないとね、と思ったりもする。たぶん、スモールステップが効果的なのだろう。一日ゴミを1個捨てる、とか。最近私は部屋を出るとき、ごみをポケットに入れて出る、ということをやる場合がある。通常のスモールではない、ミリ、あるいはミクロン単位のスモールかもしれないが。
時間、という概念は、人類の発明であろうが、結構厄介な概念かもしれない。まずは、すべからくの人々が、命の大前提、ということにしている。時に人生を支配されているわけだ。
問題は、時間の概念が故に、もう老化した、不可能だ、この年で年甲斐の無い、などと諦念の方への方便で使われがちなことだ。そのことを戒める言葉で思いだすのは、”これからの人生で今が一番若い”というものだろう。
動物には当然時間という概念はない。動物の姿を見て人間が時を感じるのみだ。忠犬ハチ公は、時間の観念なく、永遠の今のままで主人を待ち続けた、ということだろう。ただ、彼の中では、”こんなに待っているのに帰ってこない”とは思っていない。ただ“かえってこない”というだけだ。
そして待ち続けるその姿を、時間の奴隷である我々が、なんとも切なく、堪らない思いをもって眺めるのである。
時間の感覚があってもなくても、ハチ公の主人を思う思いはおんなじではあたのであろうが。
(時間の感覚がないのは、どんな感じなのでしょうか。原始人にも、時間はあったのでしょうか?)