日記11月9日。 #日記
今日からセーターを着た。
出勤に着る服、というのは皆さんどのような感じで選んでいらっしゃるのだろう。
会社員、という記号は、学生、という記号と似て、ある程度服装に制限を付ける状態、身分?であると思う。服装、特に外に着る服、というときにはまずはその服を着ている自分を見る他人、ということを意識してきた。学生であれば、それぞれの学校で決まったルールを守る人格となっているかどうかが見られている、という認識である。私の通っていた中高一貫の学校は当時はいわゆる学生服で、なぜか土日も学生服を着て街に行け、というルールであったので(とんでもないですね)、私としては”それがいやなら街に行くな、そもそも行ってほしくない”というメッセージを学校が発信している、と認識していた。
反発はあったが、そもそも通学に行き2時間、帰り2時間かかり、途中にその地では一番発達していた街を通るので、行きたければ本屋や本屋や本屋に行け(本屋しか行くところがなかったんですね)、行きと帰りで本やマンガを読みまくる生活であったので(合計4時間ですから)、まあ、街へ行くなと言われてはいたが、まあまあ幸せな学生生活ではあった。
あと思い出すのは車窓から風景を眺め続けたこと。春夏秋冬やはり季節は変わり、季節によっては海からの日の出を眺められる。今好きな風景でつい日の出や日の入りを写真に撮ってアップしてしまう理由は、これが遠因なのかなあ、と思っています。
会社員となって、今はすこし変わっているのだろうが、当時はやはりスーツで、ということであった。制服であれば(特に改造しなければ)毎日同じ服であるが、スーツはやはり数着必要であった。
スーツにしても、制服にしても、会社で制定している制服にしろ(女子高生や秘書受付はともかく←すこし思い込み?)、個人的にそれを着ている姿にあこがれる、かっこいいなあ、と思うことは今までで日本では皆無であった。色がよくない。サイズ感がよくない。デザインがよくない。すべて個人的意見であるが、皆さんはどうだろう。制服でかっこいいと思ったのは、米国のボーダー囚人服とかで、なぜ囚人服のほうが会社の制服より着たいのか、と個人的な感想ではあったが、なんとかならないのか、と今でも思っている。
私見だが、日本では”仕事で使う服や商用車はかっこよくないのが正しい。かっこよくないものを使うのが、仕事の正しいすがたである。ガマンするのが当たり前。かっこよいものは、プライベートでのみ使用可である(もっというと、かっこいい仕事着を着ているヤツにはうらやましくて腹が立つ)”という暗黙の了解が昔から多分ある。商用車はできるだけ安く、ホイールは金属キャップ、色は白、車種はできれば軽、あるいは”カローラ”。トラックにしろ、バスにしろ、デザインでときめいたことは今に至ってもほとんど経験がない(かっこいい服で仕事!?遊びじゃないんだぞ!!である。そしてたぶん、かっこ悪い仕事着を着ている社員を見て社長は、会社への忠誠度を逆説的に感じて安心する、という要素がたぶんあるのだろう。思いだしたが、タモリのことが好きになったコトバに、”仕事じゃないんだ、マジメにやれ!”がある。しびれる言葉だ)。
話がずれるが、デザインで言えば、日本車のデザインが昔からなんとも残念であった。そしてなぜか海外の車のデザインが大好きだった。いや、別に贅沢がしたいわけではない。デザインが良ければむしろ日本車が故障せずに維持費が安い。これは本当になんでなんだろう。個人的には丸目で丸っこい車がすきなので、そういうカテゴリーの国産車を捜して乗ってきたが(2代目の車ではわざわざオプションを着けて丸目にした)、本当はミニやシトロエンが理想であった。最近よく読む森博嗣先生のエッセイを読むと、森氏も日本車でほしいと思った2000年代以降の車は皆無、ということであったので、なんとなく私の感覚は特別でもないようだと認識した(ジムニー、はいいですね。ですがデザインはジープから来ているような)。あと、海外に出張に行った際、ガテン系の車両がかっこよすぎて、くらくらした。ベンツのトラックとか、かっこいいですね。
車はどうしても”本来嫌なものである仕事に使う、質実剛健という名で隠したカッコよさ嫌悪主義”が影響するので仕方がないし、一回回ってそういうデザインの面白み(=スーパーカブとか)もあるのだが、普通に、自然にかっこいい、というものにあこがれていた。
そしてスーツである。私のころは、ドブネズミ色(こう表現する時点で、表現者がそれを着たくない気持ちなのがわかる)か紺、であった。基本的には吊るし?の既成品を購入する形であったので、ウエストが細く、腰骨が大きく横に張り出している骨格である私にあったズボン(そのころはパンツとは言わず)は皆無であった。その時点で、スーツとは体に合わないものを勤務中ずっと着続ける服、という意味と同義となった。
さて今はコロナである。在宅勤務でスーツを着る人は皆無(本当にゼロ)であると推測する。シャツやパンツはありうるかもしれないが(WEB会議中のみ、というのは除く)。本日も森博嗣氏の「森語りの日々」を読んでいるが、その中に”ファッションは人に見せるものであり、都会で個人がデジタル化した際は不要である”と書かれていた。これが書かれたのは2018年10月であるので、その後のこのコロナで、人が外出せず仕事をする、というスタイルが急激に進行し、当たり前となった。多分10年分くらいはその面で速まっただろう。
人が人に会わず、快適なワンルームで仕事が完了するのであれば、そもそも服は不要であろう。温度が空調で完璧であれば、一番楽なのは裸だ(一人暮らしの場合)。インターホンでの宅急便対応時には、画面で好きな服が首からしたにバーチャルで装着(似たようなのがWEB会議でありますね)。実際に最近東京に一人で住んでいた際、夏などは結構な時間裸であったのだ。
そして最近のBODY MAKE流行りは、最終的に一番プレゼンをしたい相手に見せて、高評価を得たいのは、服ではなく実際の肉体である、という真実を考えれば合点がゆく。高価な服はいわば着ている主体の財力をしめすのみ、中身の人間を逆にいえばごまかすデメリットさえある。
そう考えると、服は本当に皮膚や体温を守る、という本来の機能に戻ってゆくだろう。もちろん着ている本人の気持ちを第3者的に盛り上げる要素はある。だが自分しかそのファッションを見ないとしたら?
なんだかセーター一枚で2500字も書いてしまった。つい熱くなってしまうのは、多分私は本質的にはファッションが大好きであるから、なのだと思っている。
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。