あの時取り乱していたら何かが変わったのだろうか

Japan Cancer Forum2022の2日間を終え、静寂に包まれています。
6年前と同じ曜日で迎える明日の命日に向け、どうしても時計を見てしまいます。

今年のJCFでの希望の会セッションでは、
共有意思決定(Shared Decision Making)をテーマに取り上げました。

年齢や背景、価値観によって個々の最適は違うのだと思っています。
患者家族は当事者として人生、生活があり、それは話さないと検査やデータには表れない。
伝えることは、専門性をもつ方々にとって大事な情報となり、それによってより最適に向かっていける。
これはACP(人生会議)にも通じることで、治療を受ける立場として理解することは力になると考えたからです。
一方、SDMや患者中心の医療という言葉を聞くようになってから、私のもとには
『次の診療までに選択してきてください』と言われて動揺している声が多く届くようにもなりました。実際、この2日間でも数件、届いています。
SDMについて胃がんの視点から考えたいと強い想いで、このテーマは即決でした。

講師の佐藤太郎先生とディスカッションする中で、私は感情を出せなかったという話をしました。
診察室では、検査の結果、今日は抗がん剤ができるのか、この症状は伝えるべきなのかで精一杯で、『どう思っているか』を話していいとは思えなかったし、泣いたりするのは診療の妨げになると思っていました。
初めて泣いたのは、緩和ケア外来にかかった時、診察室に入ってすぐに
「浩美さんは眠れていますか?」と声をかけられた時です。
私を見てくれたのだと不意に涙が出ました。
家族は第2の患者と言われても、自分は夫の背景だと感じていたからです。

佐藤先生は「涙を流してくれた時、自分の前で泣いてくれてありがとうと思う。笑顔と同じくらい泣くことも大事なんだ」という話をされました。胃がん治療という視点から医療者としての考えを話してくださり、こういうことを率直に患者家族、医療者で語り合える場がもっと必要だなと思いました。

ちょうど6年前の今頃、私は泣けないでいました。
何回も『耳は最期まで聴こえていますから話しかけてください』と言われました。
集まった親族は、その都度、言われた通りに語りかけました。
『ありがとう』って。
夫の前に経験した義父、両親の3回の看取りでも同じでした。
その光景がカウントダウンみたいで虚しかったのです。
私は、ひたすら手を握って体温を感じていたかった。
それぞれの別れがあっていいじゃないかと心の中でずっと思っていたのです。

夫が旅立った瞬間、みんなが泣き崩れる中、私は「本当に死んじゃった」と言いました。
そして衝き動かされるように私は2枚の写真を撮りました。




その後、支度が終わり、霊安室に運ばれる時、廊下に出たら他の入院中の方の目に触れないような配慮がされていました。もっと泣けませんでした。


8月8日という、なんとも覚えやすい日に旅立ち、初の「山の日」に葬儀をしたという
忘れようにも忘れられない事実。
あの時、取り乱していたら、何かが変わったのだろうか…と考えてみても
その答えはわかりません。
でも、私はいろいろ選んで、今日までの日々を生きてきたんだなと灌漑深い夜です。



今夜は2枚の写真を見ながら静かに日本酒でも飲んで過ごします。

全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。