【ネタバレ|感想】ジョーカー フォリ・ア・ドゥ 〜この世界はただの舞台〜
こんにちは、mamekaです。
本日、ジョーカー2を見てきました。
事前にXなどでレビューを見ていたのですが、今回、全く情報がない中で見てきた感想をまとめたいと思います。
完全なネタバレになるので、これから鑑賞するかたは、そっと閉じていただければと思います。
1.前作との比較
バットマンとの関連性もあり、気になって観たジョーカー1は、世界興行収入1,500億円を記録しただけに、正直、とても印象に残った記憶があります。
前作の期待値が大きかっただけに、今回の作品は、前回のような爽快さ、清々しさはなかったです。
その理由としては、前作は、幼少期の回想、上手くいかない社会生活、殺人、ジョーカー誕生などシーンの移り変わりとしてダイナミズムがあり、
今回は、”監獄”と“裁判”というかなり限られたシーン描写に限定されていたのが大きいと思います。
レディ・ガガの演技は注目の1つでしたが、
本作のバッドマンとは、ジョーカーとハーレーの関係性が異なるという点で全く別な1つの作品として楽しめばいいのかなと感じました。
そんな観点で、感想をまとめていきたいと思います。
2.作品のメッセージ
理不尽な世の中に生きる人々へ強いメッセージを与える作品であるジョーカーですが、現実を生きている私たちは、作品中の世界は、もはやフィクションではなく、日常化すらしているのではないでしょうか?
テック企業の台頭により貧富の格差が進み、西海岸を中心として「世紀末だ」とまでいわれ、歪な社会構造になった米国。
“頂き女子”のニュースでも知られるように、家庭環境による機会格差、親ガチャ、途轍もない支出をする孤独な中年が増えている日本。
私が関わっているNPOでも、教育どころか、国籍すらもたない難民の子どもたちがたくさんいます。
最後のエンディングは、レディガガの曲で、アメリカらしい、「一度きりの人生挑戦すればいいじゃない」といかにも、ハリウッド作品らしいメッセージでした。
しかし、「作品として伝えたいメッセージはなんだったのか?」主人公が救われたわけではなかっただけに、煮え切らない思いが残りました。
ただ、同時に、作品のサブタイトルが、〜この世界はただの舞台〜とあるように、人間の心理に焦点を当てている作品だとも感じました。そのあたりをこれから述べます。
3.“ジョーカー#はいかにして作り出されたのか?
アカデミー主演男優賞を獲得したホアキン・フェニックスのアーサー=ジョーカーの演技は、格別だなと感じました。
できるだけ、役にハマるために、限りなく、痩せ細った身体(筋肉は結構残ってましたが)や、感じさせる悲壮感は前作と変わらずでした。
今回のジョーカーになるアーサーは、中年の売れないコメディアンでした。
幼少期のトラウマで精神疾患を患い、何もないところで笑ってしまう病気を抱え、家庭環境も悪く、上手くいかない、現実生活。
DVをする父親、子どもを守ろうとしない母親から、「笑っているといいから、みんなを笑わせるピエロのような存在のようになりなさい」と
自分のアイデンティティを仕事に見出し、根暗でコメディアンを目指すものの、価値を認められず世の中から評価されない。
そんな悪循環を断ち切れず、現実でも自分の中で想像をつくりあげる。
最終的に、世の中をぶっ潰すという想いだけが、ふつふつと沸いてきました。
そんな中、周りが自分を認めてくれたのが、“ジョーカー”になったときです。
自分の本業の延長上にいる有名なコメディアンを殺害して、世の中に不満をもつ人々が同調し始めたときでした。
監獄に居るとき、“ジョーカー”の話題を聞き、自分が周りから認め始められているのかなと思い、リー(レディガガ)から、
といわれ、「生まれてはじめて、俺は1人じゃないと思った」と言わしめるほど、人生の転機を迎えます。
しかし、周りが見ているのは、”自分の人生や生き様”ではなく、社会を壊す存在の“ジョーカー”、
複雑な境遇を乗り越えて、社会生活を送っている時点で努力をしているはずですが、マイナスからゼロになっただけでは、世の中は評価してくれません。
私たちは、どの国・どの家庭に生まれるかは決められません。
というのが、ジョーカーの言葉でした。
私は、たまたま、社会福祉が整っている日本に生まれましたが、恵まれない国・家庭環境にうまれたら、どうでしょうか?
世の中の情報が簡単に手に入る現代、”Joker”を引く可能性は誰にでもあったのです。
“Joker”を引く可能性があったことが、謙虚になるということだと思います。
4.群衆の“ジョーカー”という概念へ求めるもの
一般的に、世の中に出回る物語では、挫折から這い上がった成功談が持て囃されます。
しかし、そんな人は世の中の1割くらいで、ほとんどの人は、精神力がもたず、日々の生活が上手くいけばいいと思います。
そんな、”Taker” が多い世の中、”ジョーカー”への期待は高まるばかりでした。
「ジョーカーはいない」と言ってしまったことで、リー(レディガガ)は、主人公のアーサーから距離を置きます。
主人公のアーサーは、
と言わしめるほど、同じ境遇を聞かされて(結局は嘘だったのですが)、自分を理解してくれるリーを運命の人と錯覚しました。
男性が女性に求めるのは、「自分自身を理解して欲しい」ということです。
一方、精神領域を専攻しているリーは「アーサーがどういう過程でジョーカーになったのか興味がある。社会的にトレンドになっているジョーカーが無罪で社会復帰できたら、それを上手く活用してのし上がれそう」シビアにアーサーを利用してきました。利用価値のないアーサーは見放されます。
担当の弁護士は、職業柄、「あなたという人間とは別に、ジョーカーという別人格がいて、それを証明できれば、無罪になれる」と自分を見ようとしませんでいた。
最終的に、主人公のアーサーは、「ジョーカーはいない」と法廷で進言しますが、「死刑」と「自分という存在を認知してほしい」という2つを天秤にかけたときに、自分を認めてもらいたいという欲求が凌駕しました。
今回の作品の真髄は、「社会が求める偶像」と「自身を認めてもらいたい欲求」の衝突だと思います。
賢く、スマートに生きられる人は、「社会が求める偶像」に合わせて人生生きられるでしょう。
しかし、アーサーのように、不器用で人生経験が少ない、もしくはそれを上回る壮絶な過去をもっている人は、「自身を認めてもらいたい欲求」に傾くのではないでしょうか?
人間は、つくづく、合理的な判断ができないということが学べますね。
5.これから、”Joker”は社会問題になる
これは、今回、個人的に受けとったサブテーマです。
“頂き女子”で述べましたが、「人は、本当に心から寄り添ってくれてた人間を必要としています」
今回の結末では、主人公にとって、女性の可能性を信じたかったが手遅れでした。
孤独な人間は、自分という人間を認めてもらうことがまず必要になります。
何者でない個人は生き続けるだけでも大変です。
家族という紐帯がなくなるとどうなるか。
感情を押し殺すか、もしくは、それに耐えうる精神的な成熟が必要です。
(感情を押し殺す人生ではなく、自分が成長して、「それが何か?」と突っぱねられる成長を積み重ねたいですね)
6.Giveの精神が大事
冒頭述べたように、Gossam(フィクションの世界)は間近にきています。
米国に在住している同僚からは、「街中で、ヤクに溺れた人が散乱していて、女性が叫んでいる光景が日常」と聞いています。
“奪い続ける”という感覚が普通ではなく、”足るを知る”という考えが大事だと思います。
そんな日本では当たり前なマインドを世界中に発信できるように、NPOの活動に限らず、世の中に対する活動を頑張っていきたいと思います。
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