グラフィックス1

ナナフシ#3

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第三話です。未読の方はよろしければナナフシ#1からお読みください)
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 ある夜、ナナフシがペットボトルの中で、バラの葉につかまってじっと動かなくなった。翌朝に見たとき、身体は心なしか大きくなり、その黄緑色も濃くなっていた。ペットボトルの底には、半透明の抜け殻が落ちていた。
 恋人はあいかわらず、ナナフシのいるわたしの部屋へやってくる。会社終わりに喫茶店で待ち合わせたり、喫茶店へは行かずにそのままやって来たり。ふたりで食事をとることは滅多にない。彼の退社が遅くなる時は、自分の夕食を作りながら待ったりはしたが、恋人のために食事を作って待つことはしなかった。
「きみがそんなに世話好きとは知らなかったよ」
 ミニバラの鉢植えに、霧吹きをかけているわたしを見て、恋人はからかった。彼は咎めたり気味悪がったりしない代わりに、ナナフシ自体には無関心で、自分からそれを覗いたりはしない。
「ねえ、見て。最初に比べたら、ちょっと大きくなったと思わない?」
 チェストの上に置いたペットボトルを指してわたしは彼に呼びかけた。テレビを見ている恋人は、こちらに一瞥をくれて「ふうん」と相槌をうった。
「霧吹きはその程度にして、こっちへおいで。一緒にテレビを見ようよ」
 腕を上げて、自分の左脇にわたしを招き入れる仕草をする。わたしはそこへすっぽりと収まり、彼の胴に両腕をまわした。そして胸元に鼻先を押しつけ匂いを嗅ぐ。恋人のワイシャツは、いつも柔軟剤の甘い香りがしている。その香りは、わたしを心から安心させた。彼がそばにいない時、不安になるとその匂いを嗅ぎたくなる。彼が使っている柔軟剤を探して、自分で使ってみたこともあるが、それほどいい香りにはならなかった。おそらく、恋人の体臭と混ざって、特別な芳香になっているのだろう。
「もしあなたが死んだら、わたしにこのワイシャツをちょうだい」
 いつでも思い出せるよう、思う存分に匂いを嗅ぎながら言った。
「ワイシャツぐらい、いくらでもあげるよ」
 優しい恋人はわたしの頭を撫でた。恋人はすべてを許してくれる。わたしが今以上を望まないことを知っているからだ。
 付き合う以前、わたしは彼の部下だった。彼はいつも明るく朗らかで頼りがいがあった。彼が物事から逃げるところを見たことがない。問題を無視してやりすごしたり、責任をほかに押しつけるところを見たことがない。上司としての彼に対する信頼が深まるのと同時に、異性として惹かれ始めていくのに気がついていた。これ以上好きになってはいけないと、思えば思うほど惹かれていった。
「きみは自分の好き嫌いにきちんと理由があるんだね」
 いつか飲み会の席で彼は言った。
「おれはきみの話を聞くのがけっこう好きだよ」
「わたし、主任みたいになりたいです」
 頬が熱くなったのは酔っているせいだけではなかったはずだ。
 彼は驚いた表情で訊き返した。
「え、どうして? そんないいもんじゃないよ」
「主任はどうしていつもそんなに明るくいられるんですか?」
「立ち直りが早いだけだよ。色んなことをあんまり長く覚えていられないんだ」
 彼は冗談めかして笑ったが、わたしは胸が痛くなった。来期から違う部署への移動が決まっていたからだ。わたしのこともすぐに忘れてしまうんだろう、と思った。
 飲み会は解散になり、わたしと彼はたまたま帰りの電車が同じになった。終電間近の乗客たちは、一様に酒の臭いを振りまき、乗り遅れまいと強引に乗車してきた。彼はわたしをかばうように、腕をつかんで傍らに引き寄せた。わたしは急に、彼がどこまで逃げないで受け入れてくれるのかを、試してみたくなった。ほかの乗客に後ろから押されたふりをして、彼の肩に頬を押しつけた。ワイシャツ越しに伝わる体温は熱く、まるで触れることが当たり前だったかのようにわたしの肌にすんなりなじんだ。彼の大きな手はわたしの背中に当てられていた。
 きみのことを受け入れるって決めたからには、おれなりに覚悟もしているんだよ、とそれからずっとあとで恋人は打ち明けた。
 わたしは嬉しく思う一方、まさか、と思っていた。まさか、あなたに覚悟などさせない。わたしはすでに、あなたから十分貰っているのだから。
 恋人はいつも、最後には自分の家へ帰って行く。

 ナナフシは何度か脱皮を繰り返し、その度にひとまわりずつ大きくなっていった。はじめは人差し指の第一関節ほどだった身体は、見る間に指一本分の大きさになった。手狭になったペットボトルは捨てて、大きなプラスチックの虫かごを購入し、それを縦置きにしてミニバラを鉢ごと入れた。ナナフシの食欲は旺盛で、ミニバラはすぐに弱ってしまった。
 ある朝、ベッドの中で目を覚ますと、すぐ目の前の壁にナナフシがいた。寝ぼけた頭で、二本の触角が揺れているのを眺めていたが、どうやら現実だと気がつき静かに起き上がった。ナナフシはまるで白い壁紙のデザインのように、やや斜めに向いて額の高さの場所に留まっている。チェストの上の虫かごは、閉め方が甘かったらしく、緑色の蓋が倒れて開いていた。
 寝ぼけまなこでその細い身体を眺めながら、どうやって虫かごへ帰すか思案した。カブトムシなら固い甲羅をつかめばいいし、トンボなら翅の付け根の胴体を摘まめばいい。でもナナフシは胴体が長いのだ。恐る恐る手を伸ばして、胴体の中ほどを人差し指と親指で優しく摘まみ、壁から引き離した。ナナフシは空をつかむように手足を動かしただけで、思ったほどの抵抗は見せなかった。そのまま虫かごに返してやると、葉の上で手足を折りたたんで転がり、裏返って死んだふりをした。しばらくして安全だとわかったのか、そろそろと立ち上がって、揺れながらミニバラの枝をよじ登りはじめた。
 一晩の冒険のせいか、彼女の右の前足は根元からなくなっていた。それでも彼女は血も流さず、不自由なそぶりも見せず、当たり前のように五本の足で枝につかまっていた。

 会社のエレベーター前にいた恋人は、黒のロングコートに深緑色のマフラーを巻いていた。
「やあ、おはよう」
 恋人はポケットに片方の手を入れたまま、上司らしく挨拶をした。他の社員の手前、わたしは軽く微笑んで返事をした。
 エレベーターに乗り込んでふたりになると、恋人はわたしの背中を叩いて言った。
「どうしたの? 元気がないじゃないか」
「ナナフシの前足が取れちゃったのよ」
 わたしは泣きたいような気持ちで言った。
「たぶん、わたしのせい」
「またナナフシか」
 恋人が呆れてつぶやく。
 エレベーターが停止し、扉が開いたのでわたしたちは離れた。そこへ、車いすの笹木が乗り込んできた。紙コップの飲み物が数個載ったトレイを片手に持ち、もう片方の手で器用に車いすを回転させわたしたちに背を向けた。
「やあ、おはよう」
 恋人が笑顔で笹木に挨拶をする。
「八階でいいかな?」
「あ、百地主任、おはようございます。すみません」
 笹木はなかば振り返って、軽く会釈した。上司に対しても、相変わらず一本調子の話し方だ。
 しばらく沈黙したあと、恋人が口を開いた。
「笹木君は、確か昆虫が好きだったよね」
「ええ、まあ」
 煮え切らない態度で笹木が答える。かまわず恋人はおおらかに踏み込んでいく。
「昆虫は足が取れると痛いのかな? あんまり痛みを感じてるようには思えないんだけど」
「えっとー、痛みまではわからないですね。ぼくは昆虫ではないので」
 笹木はうつむいたまま苦笑した。
「ただ、再生能力があるものもいますよ。たとえば、ナナフシとか」
「へえ、そうなんだ?」
 恋人がおおげさに驚いて見せた。
「だってさ。柏木さん、知ってた?」
 わたしは曖昧に返事をした。エレベーター内に、妙な沈黙が流れた。
「じゃあ、前足が取れちゃっても、また生えてくるってことだね」
 恋人が訊く。
「ええ、まあ、生えてきます。元通りとまではいきませんが、ほぼ原形と同じくらいになります」
「ふうん、面白いね」
 誰にともなく無邪気なふうで恋人がつぶやいた。わたしは気まずくなって黙っていた。そのあと、わたしたちはそれぞれの職場のある階でエレベーターを降りた。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月5日(水)です。

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