グラフィックス1

ナナフシ#4

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第4話です。未読の方はよろしければナナフシ#1からお読みください)
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 午後から予報外れの雨が降りはじめた。終業時刻が過ぎると、一階のフロアには傘を持っていない社員たちが集まって、空へ向かって口々に文句を言い合っていた。わたしはたまたま、置き傘と折りたたみ傘の両方を持っていた。恋人にメールを送ると、しばらくして返事が来た。
『今日は用事が出来たから、退社が遅くなりそうだ。傘は大丈夫だよ。ありがとう』
 雨は激しくなっていった。暇つぶしにコーヒーでも飲んで帰ろうと、社員食堂へ行った。明るいテーブルスペースでは、いつになく沢山の社員たちがいて、談笑しながら雨が弱まるのを待っているようだった。
 観葉植物の向こう側に、笹木がいるのが見えた。彼も憂鬱そうに窓の外を見つめていた。
「お疲れさま」
 わたしは彼の座っているテーブルに、自分の飲み物が乗ったトレイを置いた。
「ああ、お疲れさまです」
 目を合わせず事務的に笹木は答えた。手元には、カバーを裏返した文庫本を持っていた。
「何読んでるの?」
 わたしが手を伸ばすと、笹木は慌てて本を引っこめた。さらに意地の悪いことに、隣の椅子に置いた鞄に入れて隠してしまった。
「いいんですか? ぼくと喋っているのを見られたら、同類だと思われますよ」
 わたしは肩をすくめた。
「話の種になるからいいのよ」
「はははは……」
 笹木は右頬をひきつらせ、まったく面白くなさそうに笑った。乾きすぎていて、それは笑い声と言うよりただの発声だった。
 笹木はミルクの入ったコーヒーを、プラスチックのスプーンで掬って飲んだ。それからもう一杯砂糖を追加した。すでに二本分の砂糖を入れているようだ。テーブルの上にスティックシュガーのゴミが丸められて転がっている。
「あれってほんとうなの?」
 ココアを飲みながら、わたしは訊いた。
「あれってどれでしょう」
 コーヒーを丁寧にかき混ぜて笹木が返す。
「ナナフシに再生能力があるって」
「本当かどうかはいずれわかりますよ」
 再びコーヒーをスプーンで掬って飲んだ。その飲み方を貫くつもりだろうか。
「取れてしまったんですよね? 違いましたっけ?」
 わたしはそれには答えずに「ねえ、笹木君はナナフシを飼ったことがあるの?」と訊ねた。
「ええ。ありますよ」
 不自然なほど頭上に目をやって答える。
「というか、今現在も飼ってます」
「うそ? 早く言ってよ!」
 思わず手を伸ばして彼の腕を小突いた。笹木は反射的にわたしが触れたあたりを手で払った。本気で気分を害した表情で、わたしを睨みつける。
「やめてくれませんか。そういうノリは大嫌いなんですけど」
「ごめんごめん、嬉しくて、つい」
 笹木は馬鹿にしたように嘆息した。けれど、完全に拒否されているようではなかったので、話を続けた。
「どうして飼ってるって教えてくれなかったのよ」
「訊かれなかったからです」
「わたしがナナフシの話をしたとき、すごい奇遇だと思わなかった?」
「別に。ぼくが飼っているのは、ナナフシだけではないので。飼えそうな昆虫は手当たりしだい飼っていますからね。カブトムシとかクワガタとかゴキブリとか」
「変人ね」
 わたしがはっきりと言うと、笹木はなぜか誇らしげに目を細めた。
「ゴキブリと言っても、山ゴキブリと言う種類です。不潔な家にいる気味の悪い奴らと違って、ころころしてて可愛いんですよ。手当たりしだいって言っても、節操無く飼っているわけではありません」
「ナナフシは一匹だけ?」
「種類違いで三体かな。アマミナナフシ、ハネナナフシ、それと……」
「見せてよ」
「いやです」
「傘持ってないんでしょう? わたし、二本持っているから貸してあげるわ。その代わり、笹木君のあとをついていくわ」
「やめてください。家の場所を知られたくありません」
「あなたの家なんかどうだっていいのよ。あなたが飼ってるナナフシを見たいの」
「そうとう気に入っているんですね。ナナフシのことを」
「もちろん」
 笹木は耳の後ろを掻いた。
「わかりましたよ。でも今日は困るので、今度改めてお誘いします」
「ほんと? いつにする?」
「今度って言ったら、今度です」
 笹木は顔をしかめた。
「それに、『また今度』っていうのは逃げ口上ですからね」
 笹木に大きいほうの傘を貸して別れたあと、食堂を出て一階のフロアに降りた。
 エントランスのガラス越しに、傘を持って立っている恋人の背中が見えた。そこへ知らない女性社員が走り寄って行って、彼の傘に入った。恋人と女性社員は、仲良さげに談笑しながら雨の中を歩いていく。わたしは、自分の見ている光景を疑った。あれは本当にわたしの恋人だろうか。
 急いで折りたたみ傘を広げ、ふたりを追いかけた。後をつけられていることなど気づく気配もなく、ふたりはお互いの話に夢中になっているようだ。よく見えると女の方は、恋人の直属の部下のひとりだった。確か入社二年目で、話したことはないし名前さえ知らない。
 二人は駅前の大きなカフェに入って行った。恋人がメールで告げた『用事』とは、このことだったのだろうか。わたしは、店の前からようすを眺めた。降りしきる雨が、パンプスの中に染み込んでいく。恋人はお金を払い、二人分の飲み物を持って女性社員の待つ席に座った。
 いったんその場を離れようとしたが、思い直して店に入った。店内は混んでいたし、ふたりは話に夢中になっていたから、簡単に気づかれるとは思えなかった。気づかれてもいいし、むしろ気づいてほしいとすら思った。わたしはコーヒーを注文した。店員は、不思議そうに私の顔を見た。自分でも、顔が引きつっているのはわかっていた。
 コーヒーを受け取ると、ふたりに背を向けてカウンター席に座った。店内は騒がしく、ふたりの声は聞きとれなかった。化粧なおしをするふりをして、鏡で恋人を盗み見た。恋人は女の話に真剣に相槌をうっている。女性社員の表情は窺えないが、恋愛の匂いはしなかった。きっと、仕事の話をしているのだろう。例えば、彼女がとんでもない失敗をして、優しい恋人は彼女が明日からまた元気に仕事に励めるように、大事な話をしているのだ。今回は特別な事情があってのことなのだろう。いつもこっそり会っているわけではなく。
 恋人は優しいけれど、それはわたしにだけ向けられた特別ではないことはわかっていた。彼はあの女性社員を誘うようなことはしないだろう。けれど、女性社員が誘ったら? 彼は彼女にも言うのだろうか。きみは面白い、おれはきみの話が好きだよ。女性社員は言葉のままに、真に受けて得意になるのだろう。わたしがかつて、そうだったように。
 一口もコーヒーに口をつけないままカフェを出た。バスの中で、恋人にメールを打った。『お仕事お疲れさま。頑張りすぎないでね』
 二時間後にメールの着信音が鳴った。彼からの返事はこうだ。『ありがとう。また明日ね』
 わたしは恋人に電話をかけた。
「どうしたの?」
 恋人はいつもと変わらない声で電話に出た。
「遅くにごめんなさい。でも訊きたいことがあって」
 わたしは今日見てしまったことを話した。後をつけたことは伏せておいた。
「不安にさせて悪かった。でも、お茶しただけだよ」
「彼女から誘ってきたの?」
「いや、俺が誘ったんだ。仕事のことで、折入って相談があるって言うから」
 彼の物言いに、嘘や隠し事があるようには思えなかった。わたしは泣きたい気持ちで訊いた。
「また行くの?」
「わからないけど、行かない理由もない。たかがお茶じゃないか」
 わたしは目を閉じた。閉じた目のきわがじんわり熱くなった。
「そうよね。そのとおりよ」
 彼は電話越しにため息をついた。
「おれはどうすればいいの? どうしてほしい?」
 わたしは必死に考えをめぐらせた。わたしにとっても、恋人にとっても最善の提案を。結局、この件を滞らせているのは、わたしの我儘だけなのだ。わたしは観念して言った。
「今まで通り、部下に優しくしてあげて。尊敬される上司でいて」
「わかったよ」
 恋人は静かに言い、すこし沈黙したあとでこう訊ねた。
「きみはおれに何を望んでいるの?」
「何も。ただ、覚えていてほしいだけ」
 虫かごの中で、ナナフシは片方の前足がない身体で葉を食べていた。わたしは心底、彼女がうらやましかった。恋をしないからだ。心を乱されることもない。
 風呂に入ると、足元に血が流れた。いつもより一週間ほど早い。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月8日(土)です。

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