ナナフシ #2

(この物語はフィクションです。数回に分けて完結させる予定で、今回は第二話です。未読の方はよろしければ、ナナフシ#1を先にご覧ください)
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 朝、会社の更衣室のロッカーを開けたとたん、覚えのないゴミが入ったコンビニの袋が足元に転げ落ちた。誰かがロッカーを間違えたのだろう。とくに気にもせず拾い上げてゴミ箱に捨てた。制服に着替えて、扉についた小さな鏡を見ながら髪の毛を束ねる。
 問題は、ナナフシの飼育方法だ。わたしのところへ来てから、ナナフシが食事をしているようすは見られなかった。健康状態はおろか、腹を空かせているかどうかもわからない。幼少期は母親からもらった栄養分を体に蓄えて育つ生物がいる、とテレビで見たことがあるが、ナナフシに関してはどうなのだろう?
 仕事中も、仕入れ伝票のデータ入力をしながらそのことばかりを考えた。ペットショップへ行っても、ナナフシに詳しい店員がいるとは思えない。隙を見てこっそりインターネットでナナフシを検索してみた。まず、成虫の画像を目の当たりにして、少しだけひるんだ。これまでも写真で何度か見たことはあったが、わたしのナナフシと違って完全に木の枝と見まがう姿をしていた。緑色のものや茶色のもの、大きさも形も種類によって違い、中には葉にそっくりな形をした種類もいるようだ。
 手を止めて左肩をもみほぐした。同じタイミングで隣の席の同僚が首を回しはじめた。彼女の首は聞いていて気持ちいいくらい、ぽきっと大きな音を鳴らした。
「ねえ、えりちゃん、昆虫に詳しい人を誰か知らない?」
 上半身を同僚に近づけて訊ねる。
「昆虫?」
 肩を回しながら同僚が訊き返す。わたしは苦し紛れに言い訳を探した。
「ほら、甥っ子がね、昆虫が好きで、色々訊いてくるもんだから」
「うーん、ごめん、わかんない」
 同僚は首をかしげ、たまたま通りかかった一つ下の男性社員を捕まえた。
「ねえ谷内君、きみって昆虫に詳しい人?」
「昆虫ですか? いや、興味無いですね」
 後輩社員は同僚とわたしを交互に見た。
「あ、甥っ子がね……」
 わたしは同じ言い訳を繰り返す。
「まあ、ひとり知ってますよ。大学でそういう研究してたやつ」
 後輩社員は、意味ありげににやりと顔を歪めた。
「あの笹木ですよ」
 課長が咳払いで咎めたので、わたしたちは仕事に戻った。

 笹木はいつもひとりで食事をとっていた。食事どころか、彼が誰かと仲良く話をしているのを見たことがない。彼は足が不自由で、車いすを使っていた。先天的な理由なのか、あるいは事故や病気でそうなってしまったのかは知らない。わたしより一つ下の彼が入社したてのころ、彼の同僚たちは親睦を深めようと彼に働きかけたようだ。しかし、「会社は友達を作る場所ではない」という理由でその働きかけはあっさりと拒絶されてしまったらしい。女性社員は彼についてあれこれと情報を仕入れて噂した。信憑性のない噂話は着地点が見つからぬまま、日が経つうちに興味の対象から外された。しまいには、誰も彼の話をしなくなった。
 昼休み、わたしは同僚の誘いを断って社員食堂へ向かった。焼き魚定食を選び、心を決めて窓際にいる笹木に近づく。目の前に立ったわたしに気づくと、笹木はカレーを食べる手を止めた。だけど目線はいぜんとして前方の醤油さしのあたりにあった。
「ここに座ってもいい?」
 わたしは彼のはす向かいの席を指して訊いた。
 笹木は口の中の物を飲み込んでから、「たぶん、いいと思います」と答えた。感情のこもっていない低い調子だった。
「個人が所有している椅子ではないので」
 わたしはその返答に思わず苦笑したが、彼は少しも笑わなかった。気を取り直して私は訊いた。
「あなたが昆虫に詳しいと聞いたのだけど、ほんとう?」
「詳しいと言っていいかどうかはわかりませんが……」
 彼は消え入りそうな小声で言った。わたしの喉元のあたりを一時見つめて、すぐに手元のカレーライスに目線を落とす。彼のトレイにはきつねうどんも載っていた。
「あの、間違ってたらすみません」
 笹木は片方の頬をひきつらせて言った。一応、それが彼の笑顔のようだ。
「もしぼくに興味を持たれたのだとしたら……興味っていうのは、例えば、ひとりでいて寂しそうだとか、ほんとうはみんなと仲良くしたいんじゃないかとか、そういう意味でですが……大きなお世話です、とだけ言っておきます。ぼくはひとりが好きで、男女問わず誰とも仲良くする気はないので」
 そう言い終わると、口をふさぐようにカレーライスをほおばった。
「ああ、安心して。あなた自身に興味があるわけではないの」
 わたしは箸を割って軽く手を合わせる。もちろん、いつもはそんな乱暴なものの言い方はしないのだけど。味噌汁の椀をとり、沈んでいる具をかき混ぜる。
「ある昆虫について、知りたいことがあって」
「そうですか。失礼しました。一方的な価値観を押し付けてくる奴らにはうんざりしてるもんで」
 笹木はまだ口に物が入ったまま言った。
「それで、何という昆虫でしょう?」
 わたしは周りを確認してから、前のめりでささやいた。
「わたし、ナナフシを飼い始めたの」
 笹木の目の色が明らかに変わったのが見てとれた。わたしの喉元に向かって「ナナフシ」と繰り返すと、目の前のものがすべて消えたかのように頭上を見上げた。平静を装っているが、老成した表情に一瞬、年相応の若々しさが蘇った。
「節足動物門昆虫網ナナフシ目」
 笹木が呪文を唱えるように言う。
「え、なに?」
「木の枝や木の葉に擬態した体が特徴の、草食性の昆虫です。ナナフシとはいえ七つの関節があるわけではなく、たくさんの節を持つという由来です」
 そこで言葉を止めると、手を伸ばして七味唐辛子を取った。ラベルをちゃんと確認してから、うどんにこれでもかとかけた。再び手を伸ばして容器を元の位置に戻し、ラベルの方向もきちんと正面に向けた。「ご存知かもしれませんが、ナナフシのほとんどはメスです。単為生殖といって、オスなしでも繁殖します」
「そうなの?」
 驚いて上げたわたしの声に、給仕場の中年女性がちらっと振り返った。また声を落として笹木に訊く。
「じゃあ、わたしのナナフシもメスなのね?」
「種類によりますが、オスである可能性は低いです。まずメスと見ていいでしょうね」
「さすがね、笹木君」
 わたしがおおげさに褒めると、笹木はスタンディングオベーションでも受けたかのように満足げにため息をついた。そして、唐辛子まみれのうどんをすすりあげた。
「よければ、子どものナナフシの飼育について教えてくれないかしら。何を食べるかとか、どういう環境が心地いいのかとか。あと、ナナフシについての本があれば、紹介してほしいのだけど」
「あのー……」
 笹木は少し呆れたようすで、うどんを指さした。
「食べ終えるまで待ってもらえないでしょうか? 話しながら食べると、どこに入ったかわからなくなるでしょ」
「ああ、ごめんなさい」
 それからわたしたちは無言で目の前の物をひたすら口に入れた。食べながら、ひそかに笹木を観察した。箸の持ち方が悪い。ばってんになっているのに、器用にその役割を果たしている。口いっぱいに食べ物をほおばり、そのあと時間をかけて咀嚼するのが彼の食べ方らしい。しかも、カレーライスとうどんは、大盛りのサイズだ。明らかに大食漢だった。その割には、ワイシャツの袖から覗く手首には、かなり痩せている人に見られるくぼみが出来ていた。手の指も関節や筋が浮き出ていて骨々しい。これだけ食べてなぜそんなに痩せていられるのか、という疑問が浮かんだが、彼自身に興味があるわけではないと言った手前、質問するのははばかられた。
 笹木は湯飲みに口をつけ、最後に紙ナフキンで口元をぬぐうと、ようやく口を開いた。
「若齢期のナナフシは、柔らかい葉を好んで食べると聞きます。手に入りやすいもので言うと、バラですね。柔らかい部分を選んで与えてください」
「今朝は全く動かなかったんだけど、お腹が空いてるのかしら」
「さあ……眠っていたんじゃないでしょうか。夜行性ですから」
 笹木は顔を上げ、目を細めて食堂内の掛け時計を見た。
「すみませんが、ぼくの昼休みが終わりそうなので失礼します」
「ありがとう。ねえまた、話しかけてもいい?」
 笹木はあいまいに首をかしげた。
「その必要はないと思います」
 そう言うと、車いすのストッパーを外して、皿の乗った盆を自分のひざの上に置いた。
「ご自分で、ネット検索してみてください。飼育に関するブログがたくさんあるはずです」
 器用に車いすを方向転換させると、笹木は挨拶もなしに席を離れた。
 わたしはその日、周りの目を盗んではネット上でナナフシの幼虫を飼育している人を探した。飼育環境を事細かに記載してある物を選んで、デスクトップにショートカットを作った。それを個人のフォルダに入れ、郵便番号検索という名前をつけた。
 冬の花屋では、バラは時期的に高価だった。しかもわたしがほしいのは、花ではなく葉なのだ。一輪売りのバラは余計な葉が落とされ、花の周りにわずかについているだけ。辛うじて、とうの立った鉢植えのミニバラが安売りされているのを見つけ、それを購入した。
 家に帰ってから、鉢植えの中でとりわけ若そうな葉を選んでちぎりとった。適度な湿度を好むらしいので、葉に霧吹きで水を吹きかけてからペットボトルに入れた。
 翌朝、ミニバラの葉のところどころに葉脈を避けてかじられた小さい穴が残っていた。ナナフシはあいかわらず、か細い六本の足で枝の上にぼんやり佇んでいたが、お腹が満たされているのは明らかだった。わたしが用意した葉を食べてくれたのだ、と思うと、ナナフシと心が通じ合えた気がして、なんとも愛おしい気分になった。
 ナナフシは昼間動かずにじっとしていて、夜になると活動をはじめる。緑色の長い触角を上下に振り、細長い体を軽く前後に動かしながら六本の足でゆっくり歩く。その胴体を指先でそっとつつくと、見つかったとばかりに動きをとめる。まるで『構わないで、興味を示さないで』と意思表示しているように。ナナフシには撫で可愛がる楽しみも、心癒される愛らしい仕草もない。懐く気配は一向にないし、それどころか飼い主であるわたしを認知しているのかさえ疑問だ。けれど、わたしはナナフシを愛しはじめていた。ナナフシにあるのは六本の長い足と複数の関節、それと、答えのないなぞなぞのような存在の不思議さだ。それで十分だった。
 会社で笹木を見つけると、嬉々として呼び止めた。
「ねえ、あなたの言った通り、バラの葉を食べてくれたよ」
 掲示板の前で業務連絡の確認をしていた笹木は、不意をつかれて驚いたのか、初めてわたしの顔に視点を合わせ、まじまじとにらんだ。それから何も言わずに、刑事を見かけた指名手配犯かのように、そそくさと車いすをすべらせてその場を離れていった。

(続く)

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毎回、吉日に更新いたします。
次話は2020年2月3日(月)です。

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