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【掌編】 あなたの行く先に祝福あれ

 コンビニで買った温かいお茶とコーヒーが、お互いのコートのポケットへ、カイロ代わりにセットされる。
「行きますか」
「はーい、これも最後ですね」
「ですね。金のない学生かって言うね、本当にお付き合いありがとうございました」
「いえいえ」
 私は笑って否定した。本心だった。
 職場で仕事以外のことを話すことをずっと諦めていた。けれども偶然彼と帰りが一緒になって、多分お互いに話すことに困ったからこそ誰にも話していなかった本心が転がり出て、気がついたら驚くくらいに多くを語り合っていた。
 このところ毎日。一駅分、定期券のある距離をわざわざ歩いて彼と帰っている。
 彼は今日退職した。
「寒い!」
 川辺の道は今日も風が強い。
 閉じたコートの裾は割れるし、あっという間に髪は巻き上げられてひどい有様になる。
 いつだったか、私が何度も髪を直すのを「無駄だからやめたら」と彼が笑ったことがある。それでも意地で直し続けていたら温かい缶コーヒーを手渡された。
 ── 髪直すよりそれ持ってたらいいんじゃないですか。
 確かに缶コーヒーを持っていれば手は温かい。私はその言い訳を気に入った。以来、この道を彼と歩く時は温かい飲み物を持つようにしている。
 感染症の感染拡大防止のため、国が緊急事態宣言を出している今、私の勤めている会社は時間短縮営業を選び、今日も社員全員の帰宅時間が早い。
 本来なら、どう頑張ってもこの道を彼と行く頃は夜なのだが、今の空はまだ昼に近い明るさを保っている。
 午後四時過ぎ。毎晩遅くまで業務に振り回されていた去年から考えると、嘘みたいな日常がある。
 堤防から見下ろす河川敷に広がる公園にも、まだ人が多く残っていた。
 子供はマスクをして遊んでいる。もう不思議とも思わなくなった光景に、けれども今日は何とも言えない気持ちになって、私は少し前を行く彼の背中を見た。
「……明日からスーツ着なくて良くなりますね」
「ですね、服ないから困ってます」
「買ってください」
「いやぁ……またスーツ職かもしれないし」
 彼はまだ次の就職が決まっていないらしい。もしかしたら個人で動くことを考えているのかもしれないと、私も薄々気づいている。
 明日から職場には彼がいない。
 多くを話すことができる相手がいなくなるのは単純に残念だが、多くを話す元々のきっかけになったのが、彼が退職を考えていることを私に打ち明けたためだ。
 私は最初から彼がいなくなることを知っていた。寂しい気持ちは想定内で、隠す準備は万全だった。
 私は今の会社が嫌いじゃない。
 不満はあるけれど、辞めようと考えるほどでもない。個人で動く気概もないから、集団の中に埋もれているのが一番だと思っている。
 だから彼とゆっくり話すのも今日を最後にしようと思っていた。
 彼は世間が混乱している時期に変化を選んだ人だ。
 彼と話すと、変化を選ばない自分が奇妙なもののように感じる。
 奇妙なものなのかもしれない。でも、変化しないことも悪くはないと判断がつくから、私は変化しないことを望んだ。
「とりあえず明日からおれは寝ます」
「いいですね」
「昼くらいに起きてビール飲んでます」
「何それ。どこのオジサンですか」
「ここのオジサンです」
 笑うとマスクの周りで白い息が散る。私は眼鏡がないぶんましだけれども、彼の方は早速眼鏡をくもらせている。
 変化。変化か。いいね、頑張って。
 彼は、立つためだけに頑張らなければならないような時期に、走り出そうとする人だった。私とは違う。そう痛感するから、最近は見ているだけで胸が痛む。
 私は彼から逃げ出したかったのかもしれない。その日は思ったよりも早足になって、いつもより早めに川辺の道を逸れ、駅へと向かっていた。
 早足の理由は寒さのせいで良かった。
 何も不自然じゃないはずだ。私は一生懸命普通を装っていたと思う。
 このまま別れてしまえば彼を日常に見ることはほとんどなくなるのだろうし、いつか連絡を取り合って呑みに行ったりすることもあるかもしれないが、心を揺らされる機会はもうきっとない。
 それが良かった。
 なのにいつもと違い、駅のそばのゴミ箱の前で、ふと彼がポケットから缶コーヒーを取り出す。
「……飲んで帰りませんか」
「え?」
「ポケット重くないですか」
 言いざま、彼はマスクを顎まで下ろすと缶のプルタブを開けてコーヒーを飲み始めてしまう。
 私が持っていたのはペットボトルのお茶だったから、キャップを開けても持ち帰ることはできた。いつもと違う様子に戸惑いはあったものの、仕方がないので一口だけ付き合うことにした。
 私は片耳からマスクの紐を落とし、ペットボトルのキャップを開けようとしたところで ──
 頬にキスされた。
 固まった。
「いやぁ、マスクどうやって外させようかめちゃくちゃ考えたー……」
 そばで脳天気な声が何か言っている。心なし達成感があるようなところが妙に癪に触る。
 というか、私と彼は果たしてそういう流れだっただろうか。いや決してそんなことはない。なかったはずだ。
 というか。いや ── だから私は!
「なんで! そういう空気なかったのに!」
「おれは今日それしか考えてなかったなぁ」
「する前に何か言うでしょ! ていうか、していいか聞くでしょ普通!」
「聞くかなぁ?」
 知るか!
 私はとにかくマスクをつけて駅の方へ向き直る。
「帰る! じゃあね! 元気でね!」
「はーい、夜電話します」
「仕事決まってから言って!」
「了解ですー、今夜電話しますー」
 やっぱり次のこと決めてたんじゃない!
 彼が今までぼかした話し方しかしなかったことも腹が立った。確かに私も積極的に聞こうとはしなかったのだ。だって何かを聞いて目に見える世界が変化するのは怖い。彼が抱えているものは、私の日常の変化を促すものそのものだったから。
 駅の階段を駆け上がる。
 悔しい。
 さっきまで寒かったのに全然寒くない。
 別に何かが目に見えて変わったわけではなかった。明日、私の職場に彼の姿はなく、私はそこで以前みたいに仕事の話しかしなくなるのだろう。
 でも多分変わってしまった。
 足下にあったはずのボーダーラインを、私はいつの間にか越えてしまったのだと思う。自分では望んでいないつもりで、彼に背を押されたことを言い訳に踏み越えた。
 きっといろんなことが連動して始まってしまう。先に不安はある。ただそもそもが、頑固に現状維持を貫くはずでいたのに、ちょっと頬にキスされたくらいでぐらつくような決心だったわけで。
 うっかり自分の小ささにも気づいてしまった。
 だから今はひたすら。本当に。
「……悔しい」
 笑ってしまうほど。
 自分で思うより私はたくましかったみたいだ。
 変化が怖いなんて、一体どの口が言っていたんだか。

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 あなたの行く先に祝福あれ

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