#そもそもはない~大学院留学中にスタンスが変わった(気がしている)~

Abstract:
2023年9月に始まった1年間の大学院生活が終盤を迎えた7月半ば、ここ10ヶ月の考え事を大学院の友人に話したとき、「大学院の勉強よりも大事なことを学んだんだね」と、言ってもらえたのが嬉しかった。コメントをもらえることに味をしめた。だから、noteを始めてみようと思った。

仕事を辞めて、イギリスの大学院で移民について勉強している。大学院生活を通して、ジワジワスタンスが変わった。イギリスとか大学院はほぼ関係ないけど。

どう変わったかというと、「ノリ」になった。「世のため人のために何かしらで貢献したい」っていう表面的な行動や発言は変わらない。けど、根っこのスタンスが変わった(気がする)。

では、どういうふうに変わっていった(と、思っている)のか?-キッカケは「そもそもはない」に気づきはじめたことだ。留学期間中、ありとあらゆる媒体とか会話を通して、そして記憶を掘り起こしていくなかで、「そもそもはない」が、ジワジワ実感を伴ってきた感じ。

Keywords: そもそもはない、就活、留学


0 これまでのわたし〜USCPA(米国公認会計士)の資格講座に数十万円溶かした東京OL時代〜

留学前のわたしは、根っこが分からずひた走っていた。何かの分野で、どうにかして、「人の役に立ちたい」。東京で仕事をしていた2年半は迷走具合が甚しくて、USCPA(米国公認会計士)の資格講座に数十万円溶かしたこともある。そんなこんなで、「そこ」に行くのに必要な修士号を持ってないって思ってたから(※1)、開発学(※2)で有名な大学院に進んだ(わたしのコースは開発学にあまり関係ないけど)。「なぜそれがしたいのか?」は分からず、「何か」を目指して走っていた。そして、疲れていた。

  • ※1国際協力の分野で仕事をしたいと考えていました。ざっくりいうと国連とかJICAみたいな。「英語」、「修士号」、「海外での勤務経験」が必要だと言われている。

  • ※2システム開発とかではないです。(以下、wikipedia引用)「国際開発学」はイギリスで発祥した、国外・国内の経済、社会、環境等にかかわる多様で複雑な開発課題を解決するため、経済学、政治学、法学、社会学、教育学、文化人類学、医学・保健学、工学、理学、農学等の学問体系を学際的に駆使して研究する学問である。

1 彼の仏教講座

2023年10月のとある夜、会話の流れで彼が出した「色即是空」という言葉の意味を知らなかった。「この世のすべての物事は実体がなく空(くう)なんだよ」、仏教オタクな彼による仏教講義を、ふーん、と聞いていた。

2 冬休み暇、本を読み漁る

2024年1月8日。1学期目の課題を提出し、授業開始まで1ヶ月弱。思ったよりも暇だったから、気になっていた本を読むことにした。
前の仏教講義が頭の片隅に残っていたし、その彼もオススメするから、とりあえず、みうらじゅんの「人生エロエロ」と「さよなら私」の2冊を読んだ。「さよなら私」が言うには、結局は何もないらしい。「呪文・そもそもはない」を刷り込まれた。ピンとは来てなくて、「どうやらそうらしい」っていう感覚だった。

「わたしには幸せな家庭がある」
— そもそもはない(らしい)、そもそもはない(らしい)
「永遠の愛がある」
ー そもそもはない(らしい)、そもそもはない(らしい)
「仕事や地位や立場や敵や味方や自分や――」
— そもそもはない(らしい)、そもそもはない(らしい)

みうらじゅん(2012)「さよなら私」の一節を編集

2冊読んでもまだまだ時間は「あった」から、毎年新年にあったかいLINEをくれる伯母さんにも、会話の流れで「伯母さんの考える、この一冊!」を聞いてみた。生物学者・福岡伸一さんの「動的平衡」についての本をオススメしてもらった。曰く、生物学的には、10年までの自分と今の自分は全くの別人らしい。

たとえば、皆さんが10年前に宝くじか何かが当たって、大金を稼いだとしましょう。それを、こっそり銀行に預けておいた。で、10年後になって、そのお金を引き出そうとした時、あなたが10年前に預けた本人であるかというのを、いったいどう証明したらいいか。免許証やパスポート、戸籍抄本とか […]そういったものを一切合財失くしてしまったと考えてください。

福岡伸一(2013)「アナタはご本人様でいらっしゃいますか〜動的平衡の中で考える〜」

(ざっくり要約すると)[…]生き物は「エントロピー増大の法則」によって、いつでも酸化されたり変成されたりの脅威に晒されている。それに対抗するために、自ら壊して作り替えている。と、いうわけで、10年後には「生物学的・細胞の観点からも」全くの別人になっている。変わることで平衡を保っている。だから、自分が自分であることを規定する「不変の何か」があるわけではない。生き物も「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」なのである[…]
― あれ、これなんか、みうらじゅんも言ってなかったっけ?分野代わって生物学だけど、言ってること似てるなぁって思った。

3 方法論的ナショナリズム

2024年2月、本格的に二学期目の授業が始まった。取っていた講義の一つ、「ethnicity and superdiversity」という授業で、「方法論的ナショナリズム」という言葉を教わった。何のことかというと、わたしはざっくり「そもそも〈国〉も思い込みじゃんねぇ。それなのに、学者にしたって、論文やらなんやらで、〈国〉を主語にしすぎ。そうやって思い込みを強化するの、どうなん?」っていう批判だと理解している(違っていたら、ごめんなさい)。あれ、ここでも「そもそもはない」が出てきたぞ。

4 喧嘩とか

ところで、彼(日本人・同じ大学院で別コース)とは渡英してすぐの2023年9月に知り合って、10月には付き合うことになったのだけど、ほぼ毎日一緒にいた。分かり合えずにぶつかることが多かった。そうして、4月はじめに「プツンと来てしまった」と、シャッターが閉じられた。訳がわからなかった。

kindle unlimited に登録していたから、たまたま目についた「普通という異常-健常発達という病(兼本浩祐)」という本を読んだ。結果として、わたしの「癖」がよりハッキリした。

この本のざっくりした理解は以下のとおり:

  1. ドーパミン移行されやすい「癖」の話:「健常者」と言われる人たちは、もともとは「おいしいお菓子」に感じたドーパミンを、「テストで100点取れたら買ってあげるね」などの条件付けによって、いつしか「テスト勉強=いいこと」と刷り込まれやすい「癖」を持っている。つまり社会的な「いいね」に基づいて矯正されやすいことになる。

  2. からの、「いいね」によって世界に受肉する話:「わたし」は絶対的な境界線をもった何かではないということ。他者の「いいね(=承認・まなざし)」を受け取って、点線の「わたし」を認識しているということ。

本を読む前の「わたし」の捉え方
本を読んだ後の「わたし」の捉え方

つまりこれまでのわたしは、「ドーパミン移行」の結果、世間の(ママの)「いいね」をインストールして、なのにインストールしていること自体には無自覚で、「そうしなければいけない」と思い込んで突き進んでいたことになる。

こういった諸々を経て、ついに「そもそもはない」に確信を得た。

5 自己分析を始めて、そして、落ち込む

ところで5月は、重い腰をあげて「就活をはじめるかぁ」と思っていた時期でもある。「業界は何にするの?」「職種は何志望?」という質問に全く答えられないくらいには、苦手意識を持っていた。そもそも業界を知らない。職種も知らない。だって、学部の時は就活を全くしてこなかった。これまでは、たまたま上手く物事が進んで、職にあぶれることはなかったから、また流れに身を任せればいいやと思っていたのに。なんでこんなこと聞いてくるのって腹も立ったけど、ひとまずハウツーに従って、自己分析に取り掛かった。なんか評判らしい「メモの魔力(前田祐二)」にくっ付いてくる、自己分析1000問をやってみることにした(飽きて200問くらいで挫折した)。そのちょっと前に「普通という異常」を読んでいたから、単純に、食べ合わせが悪かったのだと思う。「小学生のころの将来の夢は?」とか、「理想の職業は?」とか、何の質問に答えても、掘った先でスコップがカツンと当たるのは「だれかの目線」「ママの目線」になっていた。

本当に何にもないんだなぁ、、、と実感したら、いじけてやる気を失った。「褒められたい」、「認められたい」しか出てこない。「絶対的な境界線をもったわたし」や、今はまだ気づけていない、「本質的で特別なわたし」など無いのだし。内に何かあると信じて、掘ったところで、意味ないもーん。「いいね」とか「しなければいけない」を取っ払っていくと、行動の根拠になるコアのところが「みんな」のなかにぼやけ出して、何も残らないような感覚になった。

また本に逃げた。こんな例えに出会う。

三木清は、人生を砂浜で貝を拾うことに喩えている(「語られざる哲学」)。人は皆、広い砂浜で、めいめいに与えられた小さい籠を持ちながら、一生懸命貝を拾ってその中へ投げ込む。その拾い上げ方は人によって違う。無意識的に拾い上げたり、意識的に拾い上げたり。ある人は習慣的に無気力に、ある人は快活に活発に働く。ある人は歌いながら、ある人は泣きながら。ある人は戯れるように、またある人は真面目に集めている。この砂浜の彼方に大きな音を響かせている暗い海がある。それに気づいている人もいれば気づいていない人もいる。籠の中には次第に貝が満ちてくるが、何かの機会に、ふと籠の中を点検する。すると、かつて美しいと思っていた貝が少しも美しいものではないことに気づき、愕然とする。と、その時、海は破壊的な大波で人をひとたまりもなく深い闇の中に連れ去ってしまう。広い砂浜は社会、小さい籠は寿命、大きな海は運命、そして強い波は死である。

岸見一郎(2020)「人生は苦である、でも死んではいけない」

いつか、必死で集めたものぜーんぶが貝殻であることに気づく日がくると思うと、何をするにも億劫になった。ひた走り続ける意味を見失った。

6 ニューヨークのコント見て、吹っ切れる

で、病み散らかして、「それだと面白くなくない?」って吹っ切れた。というか、飽きた。後に「遊び病み」「病み得」と揶揄われるのだけど、たしかにそうなのかも。

ふてくされてダラダラ過ごす中、youtubeでニューヨークのコントを見た。「学校のクラスのキャラ構成ってほぼほぼ同じじゃない?」っていう問いかけに始まるネタ。まさしく、全体像としてのパズル(=クラス)の、空いているピースに自分を当てはめていく感覚のことを言ってるのだと思った(!)。小5のクラス替えの結果、キャラ被りした人(当時は天然(?)で字が綺麗な子(??)だった)をめちゃくちゃ意識していたことを思い出した。コント、面白かった。わたしが、今まさにいじけていることを、こうやって面白おかしく創り上げることもできるのだなぁ。

結局貝殻集めだとしても、だって他にすることもない。ベッドでジッとしていることにも飽き飽きした。だったら、あえて、これまでインストールしたものに乗っかってみて、ノリで行けるとこまで行ってみる。ノリで、全力貝拾いをすることにした。

吹っ切れて開始した就活の二次面接では、「弱さを肯定できる社会を作りたいです」って思いの丈をぶつけるのだけど(ところで、今後しばらくのテーマは「弱いを肯定する」になっている)、原体験を聞かれて困った。明確なカタチをもった、「そういうもの」は無い。強いて言うなら、小学生の時に母に言われた、「世のため人のためになることであれば、なんでもやっていいよ。自由に生きたらいいよ」だと思う。

とりあえずの今のカタチが大切なのはほんとうだ。
わたしの気持ちや行動の根っこが例え「だれかの(ママの)視点」なのだとしても、こうやって色んな人や本やモノやコトに出会って・生かされてきた中でコネコネと製作途中の、とりあえずの「わたし」が好きだし、嫌いなところもある。でも、こうやって無関心ではいられないくらい、すっごく大切になってるのはほんとうだ。

これまでモヤモヤしたり、素通りして気づいていない違和感もほんとうだ。
壊したり作り直したりの製作途中で、暫定的なカタチをもったわたしは、明確な「原体験」までには結晶化できていない違和感に対してモヤモヤ・ピリピリもしてきた。同時に、他の誰かやわたし自身の違和感を素通りしてしまったことも沢山あったのだと思う。違和感を無視したくない。無視しないためにも、とりあえずはこれまでインストールしたものたちを指針にして、引き続き右往左往して、変化の糸口を探したい。そのためにも変わり続けなければ。

二次面接での原体験に対する質問にも、しどろもどろに日常の違和感の話をした。電波女って思われたかしら…絶対落ちた、、、ってしょんぼりしたけど、幸い内定を頂けた。単純だから、こうやって自分のカタチを確認して、受け入れてもらえたことが嬉しかった。(※「メモの魔力」自体はすごく勉強になった。たまたま本の掛け合わせが悪かっただけで、日常の違和感とか普段の考え事、新しく知ったことを整理するときのフォーマットとして参考にしている。)

7 化合プロセス

「わたし」はそうやって今もジタバタと化学反応を起こしてる真っ最中の、化合物(化学うろ覚えだから、なんかずれてたら教えてほしいです)なのだと信じることにした。人生が貝殻拾いなら、結局みんな行き着くところは同じで、ただただ最後は黒くて大きな波に攫われるような藻屑エンドかもしれない。

ただ、本質的でも絶対的でもなくて、むしろグニャグニャ・フニャフニャした点線のわたしであることは、これから出会ったり、ぶつかったりする人・モノ・コトの一個一個と能動的・受動的に化学反応を起こしたり起こされたり、くっついたり分離したりを繰り返しながら、最後は「ちょっとずつ違う」化合物になり得るってことなのかも。点線のわたしであることは、パズルを変え、文脈を変えて、食わず嫌いせずにごちゃまぜにインストールしては忘れてを繰り返すなかで(参考:思考の整理学-外山滋比古)、各々が「ちょっとずつ違う化合物」になれるんだって、そうやって、いくらでも変われるんだと信じる根拠にもなり得る。ちょっとずつ特別な化合物、だとすると、とてもワクワクする。

徹底的に、ノリで、そして気合いで、今後ひとまずは化学反応を起こしまくることにした。気楽になった。こんなノリの末、最後にどんな化合物ができるのかを楽しみにすることにした。

8 まとめ

喧嘩ばっかりだった当時は気づいてなかったけれど、今思い返せば、沢山ぶつかったのも「頭の癖」に起因した二次障害的な「インポ(※3)」がキッカケになっていたのだと思う。根っこが分からずひた走っていたから、「わたしなんか、まだまだ足りない、足りない」って感じていて、うっすら自分が嫌いだった。嫌いなくせに、内側にこもって「嫌いな自分」についてウジウジ考えて、いっぱいいっぱいになってしまう余裕の無さとか諸々、すごく残念で恥ずかしいと思っていた。こういうの早く治さないといけないから、足りないから、もっと頑張らないとって思っていた。そうやって、どんどん嫌になる「インポ」悪循環だった。

  • ※3インポスターシンドロームの略です。本来の意味とはズレているのかもしれないけど、「わたしなんか」って感じることを、ザックリそう呼ぶことにしている。(以下、Wikipedia)「インポスター症候群(インポスターしょうこうぐん、: Impostor syndrome」は、自分の達成を内面的に肯定できず、自分は詐欺師であると感じる傾向であり、一般的には、社会的に成功した人たちの中に多く見られる。」

彼自身の弱さとか違和感をさらけ出して、わたしの「インポ」に対するモヤモヤを言葉や例えに落とし込んで・言い換えて(4月とか途中途中、「全然伝わってない…またこれ言わなきゃいけないの…?」って愛想尽かされそうにもなったけど、それでも懲りずに)、留学期間を通して何回も何回もぶつかり続けてくれたこと、本当にありがたいな~って思っている。

モヤモヤも、イライラも、しょんぼりも、楽しいも、さらけ出して・ぶつかってきて、そうやってきたことが全部、本当に面白かったから、おかげさまで自分の「足りない(と、思っていたから隠したかった)ところ」も含めて、まぁいいかって思えるようになった。まわりに対しても、自分に対しても「そこがいいんじゃない!」って思える気持ちが、頭だけじゃなくて、ぐっと根っこのところに来た感じ。

「そもそもはない」に気づいて初めて、わたしの大事な友達がよく口にしている「No one is perfectよ!」にも、実感が湧いてきた気がする。みんな大好き。

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