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人生ハードモード

周りの反応で自分の価値を図ろうとする私が、なぜ子どもに教える仕事についてしまったのか…。子どもが、何かできれなければ私がだめなやつと思われる。そういう思考になる私が、教育の仕事について良いわけがないし、苦しいに決まっているのである。数年前の私は、やはり自分のことを分かっていなかったということでしょうね。

夏季休暇が終わった9月以降、1ヶ月半に渡って毎週のように「もう人と喋りたくない」「1人でいたい」「仕事行きたくない」病に襲われている。

お休みが挟まれば少し気持ちが上昇するし「なんてことない!」と思えるのだが、いざ勤務日になると、簡単には行動変容しない子どもたちに向き合うことと、気を遣う保護者対応により余裕がなくなり、家に帰りながらわんわん泣いてしまうこともある。

そんな中、noteで見かけた、加藤諦三さんの『愛されなかった時どう生きるか』という本を読んでいる。

ここまで読んでみて要するに…

『子どもの時にそのままの自分が受け入れられ、愛された経験のある人は、大人になった時に“何もしない自分で大丈夫。価値がある”と思える状態になっている。だからありのままの自分をさらけ出せる。しかし、子どもの時にそのままの自分が受け入れられず、愛されなかった人は、ありのままの自分をさらけ出すことができない。ありのままの自分を隠すことにエネルギーも使っている。つまり余裕がない。自分のことばかり気になってしまう状態でもあるので、他人にGiveすることができない(愛することができない)』

こういうことなんだなと。

ある教育関係のトップが「母親のことをにこにこと語る人は成功する(つまり、愛された人はってことでしょう)」と言っていたが、おっしゃる通りですよ。自信に満ち溢れているだろうし、無理に取り繕おうなんて思わなくて良いんだから他にエネルギーを注げるわ。

愛のある家庭で育ったというだけで、人生イージーモードだ。羨ましい(こんなこと言ったら、そういう立場の人に怒られそうだけど)。

私はきっと加藤さんの本で言う、神経症型の人間だろうから(認めたくないけど。でも、加藤さん曰く、それを認めなければ一生そのままだ、とのこと)、このままだとまともには生きられないのか〜と思って絶望感を抱いてしまった。

まあ、でもこうやって原因をきちんと知ることができただけでも幸運かもしれない。「私を認めて!」という思いが強いあまりに、知らないうちに人を傷つけ、不快にさせているかもしれないのに、それを自覚もせずにいる人。そんな人でいたくない。

まだまだ不安定になるのだろうけれど、受け入れて、悲劇的にならず、なんとか向き合って生きていかなければ。

前ほど残業もしていないし(といってもほぼ必ず2時間は残業するはめになるが)、毎日7時間ほど睡眠をとっていたはずなのに、お休みの今日は日中とても眠くて、だるかった。気疲れだろうか…。

夕方横になった後、100円で購入した長ネギをたくさん使って、大好きな塩ダレの豚肉炒めを作って食べた。おいしい、と思った瞬間涙が出てきた。そう思えるだけ、まだ幸せだし、自我も保てるような気がする。



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