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『ルビンの壺』 ー感情の共有は夢か現か?〜後編〜

 さて、前編からの続き。『二人の器』が満たされないと、私は満たされていたはずの自分のウツワまで干上がる感覚を味わってしまう。つまり、いくらそれぞれの気持ちが満たされていたとしても、二人の感情の共有次第で、私のご機嫌が左右されてしまうのが最大の問題だという事になる。それならば、何をどうしたら良いのだろう?

 私と同じように「他人とやり取りをして元気をもらう」と感じる他の人にも詳しく聞きたいところだが、この『二人の器』は、どこにあるのだろう?
 そして、元気をもらうのは相手からだろうか?
 この二つが大きな鍵となりそうだ。

『二人の器』はどこにある?

 あくまでも私個人の感覚だけど、人と人の間には感情の入り混じった空気のような感触がある。感じ方の似ている者同士ならば、その時そのタイミングで感じるであろう相手の感情の予測に、あまりズレがなく「今◯◯と思ってるだろうけど」と、相手の気持ちを言い当てる事ができるので、その上で「私は××と思うんだよね」と自分の感情を表現できる。だから、目には見えないけれど、感覚として共通のウツワが実在しているような手応えがあるのだ。
 そして、同じ雰囲気を共有しているという魔法が解ける事はない。解く必要もない。ルビンの壺で言えば「私たちの横顔と、その間に浮かび上がる壺」というダブルミーニングを言わずもがな、共通認識している状態だ。
 男女の関係に限らず、友人や家族、様々な人間関係で、この感情面の共有という「絆」とも言われるような結びつきを、私の経験では、人と人の繋がりと呼ぶものだと思っていた。では、その関係をつなぐ絆そのものは一体どこにある?と改めて問えば、二人の間ではなく、当然それぞれの胸の中にあるのだろうと思う。
 それを感じられなかったのは、夫は自分の感情も私の感情も自分の中にしまい込んで一緒にしてしまい、気持ちを取り出し空気に触れさせる発想がない。つまり、やり取りを楽しむ過程がないから、情緒的な雰囲気を共有しづらいのだと思う。

並行処理が生み出す"フンワリ感"

 この幻影のようだけど、確かに実在するはずの共通の器は、恐らく「並行処理」をする脳か否かで「見える/見えない」が、決まるように思う。白黒ではない、複数の感情や感覚を混ぜ合わせた「グレーゾーン」の曖昧さというのは「並行処理」の賜物だから。フンワリとした雰囲気や空気感と呼ぶ正体はコレだろうと思う。
 それは例えば、祭りの後の余韻だとか、相反する感情の葛藤や曖昧さの織りなす「エモさ」のようなもの。
 夫の内面では、その時、自分が嫌か/嫌じゃないか、相手がご機嫌か/不機嫌かくらいしか重要ではない。基本的に、間のグレーゾーンはポッカリなく、白か黒かになっている。ここで言っておきたいのは、グレーゾーンを話せば理解してはもらえるし、言葉にならないだけで感じてる事も多い。だけど、本人は普段そこにフォーカスしていないので、実感がどうしても得づらい。

 そして私自身は、並行処理をする脳なので、複数の感覚や感情が混じり合う。時間軸や他人軸、今以外についての思案や、自分以外の誰かの感情など、夫が捉えるのが苦手な要素を、私はモヤモヤと常に感じてしまう。そこに生まれる、この夢か幻かのような器をウッカリすると、夫も常に感じてくれているものだと思ってしまい、度々、行き違いが起きる。それを今でも私自身が自覚した上で、夫へグレーゾーンという曖昧さを伝えていくのが私たちの日常。最初はそんな物が本当にあるの?と信じられない様子だったけれど、話に白黒決着をつけるだけでなく、私の中にそれは"ある"という事実を、知ってもらう事が大切だ。

エネルギーを自給自足する自分軸の考え方とマインドフルネス

 ここからは、私の中の古い常識のアップデートや発想の転換の話になってくる。
 まず、人と話すと感じていた「人から元気をもらう」という感覚は、実は自分が心地良く感じられれば、自分で満たせるのだと気付いた。確かに、人と楽しいやり取りをすれば、エネルギーチャージされる感覚はあるけれど、それは人にもらっているわけではない。自分が楽しいから、満たされるのだ。
 つまり「楽しくないから人にエネルギーが奪われる」なんていう事もない。何故なら、感情の共有ができないからと言って、夫に向けて不機嫌になる必要はなく、不機嫌になるからエネルギー量が減るのだけど、不機嫌を選んでいるのは他の誰でもない、自分なのだ。
 では、「本当は今、夫と感情を共有したいのに、できなくてつまらない!」という行き場を失った気持ちはどこへ行こう?
 「分かってもらえなくて残念だよねぇ」と、心の中で自分に共感してあげる。そうして自分の感情に気付いてあげると、フツフツしていた負の感情は、本当にスーッとおさまっていく。特に自分の悲しみの根本に気付けば、怒りはおさまる。まずは「何故、腹が立つんだろう?」と問いかける癖をつける事から私は始めた。
 更に一段引いた視点で「私は夫婦のコミュニケーションがなかなか上手く取れない事を楽しんでいる」と自分の状況を俯瞰して「すべての感情体験は素晴らしいこと」と受け止められたら、エネルギーは削られない。自分で自分を満たす事ができる。まさに無敵だ。
 これは感情に呑まれてしまうととても難しいし、私も日々、自分の「今」の感覚や気持ちを観察しつつ、実験中だ。

 この考えカは、所謂、自分軸だとかマインドフルネスと呼ばれる類いの話だと思うけれど、ASDの話とは関係なく私個人的には、自分で自律できる力を身につけておきたい。因みに夫は、生まれつき自分軸で、感情も常に俯瞰しているらしい(と、最近知った)。だからこそ、私と感情面の捉え方が違い、すれ違ってきたのだ。
 実際、私が他人視点より自分視点に軸を置き、感情の俯瞰を身につけるうちに、夫と視点が合ってきた。ここで私が気を付けなくてはいけないのは、夫に合わせすぎて感情を我慢しないこと。すべての感情は出し切って、そして俯瞰で見る。
 書くのは簡単だけど、実践はまだまだ難しい。

 しかも、それができたとしても、恐らく私の会話をしたい欲求はなくならないので、引き続き、二人の間のコミュニケーション方式は、社会と共通の定型方式に合わせてもらっている。ここは、当然ではない。家庭である二人の間では、夫の少数派な捉え方も五分五分だから。

本当に大切なものは何?

 結婚して4年の間、数え切れないほど揉めて、ぶつかり合い、私の中にある『二人の器』だけが傷付いたり、一人で直したりしてきたと思っていたけど、実は、夫の中にもソレは育っていて、いつからかお互いの気持ちの「内容」は違っても、夫の中にも『二人の器』があると、今では私が感じられるようになっている。本人も「その感覚は分からないけど、なくはないと思うなぁ」と言う。
 私の気持ち良い会話のやり方に夫が精一杯歩み寄り、夫の特性や違いに私が気付いて精一杯歩み寄り、日々お互い楽しく過ごすために努力をし続けているのは、紛れもない事実なわけだ。
 つまり、それぞれの在り方さえ尊重し合えれば、ルビンの壺の絵柄の方も、自ずと浮かび上がるものなのではないだろうか。
 共有を目的にせずに、それぞれ自分を満たした結果、共有していた。そんなイメージがいい。そんな人間関係が今はいい。
 現に私たちの共有している『二人の器』という絆は、むしろ、その場で投影する夢現のフンワリしたような不確かなものではなく、私たちが歩いたあとにできていく足跡のように確実なものだと、今の私はそう思う。

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