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『ルビンの壺』 ー感情の共有は夢か現か?〜前編〜

「二人の器」の存在

 私たち夫婦がかなり苦戦するのは、やはり「感情面(=気持ち)」のやり取りだ。目に見えない気持ちを共有する事が、なかなか難しい。
 気持ちを"ウツワ"に喩えると、私には私のウツワがあり、夫には夫のウツワがあり、夫はそれぞれのウツワが満たされてご機嫌な状態ならば満足で、それ以上何を望むの?といった具合だ。
 しかし私には『二人の器』という夫と私、二人の気持ちを共同で注ぐ"気持ちの共用スペース"のようなものが感覚的に存在していて、パートナーと共に満たす作業こそ、自分のウツワをも満たす大きな要素となっていた。

 ポイントは、事実面の共同作業ではないこと。例えば、私の買い忘れた日用品を夫に買ってきてもらうとか、料理を一緒にするなどの目に見える共同作業ではなく、それに伴う表情や仕草で気持ちを「投げ掛けたり、受け取ったりするやり取り」という目に見えない共有部分のことだ。それはまるで、二人が向き合えば、浮かび上がるはずのルビンの壺…。だけど夫には、ダブルイメージのその絵のうち「それぞれの横顔」しか見えていないようだった。
 壺のイメージを作ってるパートナーの夫自身が、その存在を認識してくれないという事は、二人の出来事を経験していても、私は一人ぼっちの感覚に陥ってしまう。
 それがASDと定型のパートナーシップで一番のネックなのではないか、と思う。

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ルビンの壺』〜Wikipedia参照


自分で自分のご機嫌をとった上で、会話をしたいという欲求

 当事者視点で鋭く考察されたこちらの記事を読んで、私が夫のASD思考に合わせすぎて分からなくなっていたモヤモヤが一気に見えてきた気がする。

 自分で自分の機嫌をとるという自己完結的なことと、相手とコミュニケーションをとりたい欲求は私の中では別問題と気付いた。
HOTASさんの語るこの部分、

本当のことを言えば、私は「あなたとの関係で自分の機嫌を取る」のではなく、「私自身だけで自分の機嫌を取る」ことが可能なのですよ…ASDの自己完結とは、「独り言ちる」ということに他ならないのですから。
だから、あとはあなたが「ご機嫌」でいられることで「円満」を確保したくなるワケです…あなたはそうではないのでしょうけど。


 夫から見た景色はきっとこの通りだと感じる。
 でも実際の私は、自分の機嫌を夫にとって欲しくて喋るわけではない。純粋にコミュニケーションをとりたいのだ。それは以前も書いたように、心の現状を共有したい。

 必要か必要でないかと言われれば、最悪、必要ではないかも知れない。そして最低限のやり取りで済ませたい夫にとっては、ボーナスステージのように感じるかも知れないけど、私にとって人間関係を構築するには、必要不可欠なものだと思う。
 自分の機嫌は自分でとれても、パートナーであるあなただからこそ、自分の気持ちに気付いてもらいたいし、あなたはどんな局面でどう思うのかを知りたい。そうして『二人の器』が満たされてこそ、私のウツワも満たされる。

 例えば夫へのちょっとした心遣いを、いくら感じ取ってくれていたとしても、ノーリアクションだったり伝わってると分かる言葉がなければ、実際、受け取ってくれているのかが分からず、何にどう感じる人なのかも分からない。私が分からなければ、「相手の気持ちに気付かない鈍感な人」という事になってしまう。いくら『二人の器』に私が気持ちを注いでも、夫の受け取る表現や、投げ返す仕草がないと、私のウツワはやがて干上がってしまう。
 じゃあ、最初から私が何も働きかけなければ良いのだろうか?それでは二人で居る意味が私には分からない。夫は、とても温厚で優しい性格だし、実は私とは「一緒に居る」だけで気持ちを共有している感覚になれるらしいのだ。そして、積極的に気持ちを注ぐ行為としては「働いて稼ぐ」という大元へ話が向かう。それは確かに、一番大切な愛情表現なのはごもっともなのだけれど、日々の小さなやり取りで、目に見えない気持ちの部分に触れ合う事で、人間関係は豊かに潤う。少なくとも私はそう感じてしまう。
 だから、なかなか夫から水が注がれる事がない…と、私がどうしても感覚的に誤解してしまう物足りなさがあり、それが、夫と年月を重ね、人間関係を築いていると、なかなか胸を張って言えなかった理由だ。

 つまりこれは、私にとっては、今までの人生経験の中で固まりつつあった「友情」や「絆」という類いのカタチをアップデートする必要があり、夫にとっては新しい、この概念自体をインストールする必要があったという話なんだと思う。
 どちらが正しいとか間違いとか、良い悪いではなく、お互い自分自身の思い方、考え方をよく知った上で、相手との違いを知り、受け入れる。これに尽きる。
 勿論、夫が目に見えないやり取りが苦手な事を把握してからは、さすがにこちらの欲求に付き合わせるわけにはいかないと思うようになったけど、お互い分かろうとする姿勢だけは持ち続けていたい。

『喜び2倍、悲しみは半分こ』の法則

 例えば、夫にとって私のウツワが満たされた状態は「問題ナシ」なので、楽しそうだったり嬉しそうにしていれば、何もはたらきかける必要はない。だけど、悩んだり悲しんだりし始めると「問題発生」なので、その感情の解決を焦ってしまい、かえって私のご機嫌を拗らせてしまう事が多い。
 この反応は、私とは真逆なのだ。
 私は親しい相手が楽しそうなら、一緒に楽しめるよう参加し、喜びがもっと増すように働きかける。逆に落ち込んだり悲しんでいたら、話を聞いて慰めたり励ましたりして、苦痛を少しでも和らげる方法を考える。
 よく言われる、「喜びは2倍、悲しみは半分こ」はこの感覚だ。これを感覚的に共有しているのが、目には見えない『二人の器』にあたる部分だけれど、私と気持ちの動きが逆だったり、そもそも人に共感されなくても特に問題がなかったりで、夫にとってそのウツワの存在自体、人との関わりの中であまり重要ではない。それぞれのウツワさえ満たされていれば。だけど、私とパートナーでいるためには、それを知っておかないと一緒には居られない。共通のウツワが満たされないと、私は満たされていたはずの自分のウツワまで干上がる感覚を味わってしまうのだから。つまり、二人の感情の共有次第で、私のご機嫌が左右されてしまうというところが一番の問題だ。

 夫の限界を知っても尚、私が求めてしまうのは求めすぎというわけではなく、二人の間では「違い」としか言いようがなく、どうにもならない部分だ。
 では、何をどうしたら、私は夫との関係の中で、満足感が得られるのだろう?
 続きは後編へ。

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