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私たち夫婦のかたち。

さて、夫がASD特性を自認し、夫婦のスタートラインに立ったあと、私は一人芝居の虚しさからは脱したものの、すっかり楽になれたとは言い難かった。
夫は新しい環境への不安に加え、私に怒られるのを恐れ、家で「外モード」になってしまったり、私もどれだけASDの理解をしても同じような揉め事を繰り返してしまう不安や混乱で、パニック障害が悪化したりと、お互いメンタル不安定のグダグダ状態が続いた。
何故なら、ASDだと本人が自覚したからと言って、いきなり変われるわけがない。それには何が違和感なのかを、こちら側から具体的に指し示さないと、夫は学びようがないからだ。

そして、向き合ってから約半年ちょっとが経って、今思えば、近寄れば近寄るほど、チクチクと相手を自分の針で刺し合ってしまっていた「山嵐のジレンマ」から、ほぼ抜けられたと言えるターニングポイントがあった。

夫婦関係のスタートラインから、
気持ちの通い合う『家族』になるまでの記録。

感情の「表現」と「視点」の誤解を解く

下準備としてまず、それができていたのが大きいと思う。

私からは本当に分かりづらいのだけれど、夫は感情に鈍感だと思っていたが、私に対して「表現」が乏しいというだけで、実は、私以上に敏感だったという事。

相手に向けての表現やサインが少なく、ただそれだけで、私からは感情全般”気付いてないように見える“のが問題だった。
特に夫婦関係を「どうにかしなくては」と思っている状況では、私の感情に対してアンテナを張って敏感にキャッチしている割に、"会話上"にはこちらの気持ちに気付いているサインとしての言動がないから認識しようがなかったり、私が分かる形でのリアクションが少ない

実際、私が表面をいくら取り繕って、言葉だけ良い事を言ったとしても、夫には誤魔化しは効かない。鈍感どころか非常に鋭く、こちらが否定的な気持ちや馬鹿にする態度があるうちは、取り合ってくれないか、聞き入れてくれず、まずマトモな話し合いはできていなかった。
だけどそれが、こちらの感情を察知した上での話だとは、夢にも思わなかった。何しろASDを自認するまで私からは、夫がまるで人工知能のロボットのように見えていた。逆に人間としか思えない今となっては、本当に信じられないほどの誤解をしていたと思う。

私から感じる一つのパターンとしては「異論がない時は無言で、違う時だけ返事をする」というのがあって、言葉だけでこう書くととても合理的なようだけど、実際のやり取り上では、私の気持ちは削られる。何故なら、共感がないまま否定ばかりを喰らう形になるからだ。
無反応=「YES」だと言われても、他人の頭の中である以上、どの部分が問題なしなのかが分からない。夫には当然悪気はないのだけど、その違いをお互い知らないと、無視されたと誤解し、傷付け合ってしまう。
『思い遣りってなんだろう?』の記事にも書いたように、「大丈夫?」と声をかけられなかった時と同じく、共同生活するには、リアクションがないと相手に不安感や不快感を与えてしまう時がある事を知ってもらい、話を理解したら「なるほど」とか「そうなんだ」といった受け止める言葉があった方がやり取りがスムーズだとも伝えてある。ここは「できる/できない」はさておき、私のやり方を知ってもらう必要がある。
どうしたって、相手への「表現」をするもされるも必要とする私の脳は、それを必要としない夫とのコミュニケーションに満足感が得られず、フラストレーションを抱えてしまうのは明らかな仕組みなんだと、これを共通認識として持つことがとても重要だと思う。

さらに、私には夫が人の感情に敏感だとは到底思えないことに加え、他人視点の欠如も絡み、自分本位のように私の目には映っていた。
それは、ASDは定型のように自分視点と他人視点から自分視点を選ぶわけではなく、デフォルトで自分視点になっているからだ、ということは最低限、夫は自覚を、私は理解をしておかなくてはならないところだと思う。

実際に夫は、結婚するまでは自分視点だけで社会生活を切り抜けてきた。こちらに関心がないとか、気持ちを無視していると感じる事はすべて、あくまでも私の思考回路から感じ取っている見当違いな感情的解釈に過ぎない。
他人視点の欠如など物理的な問題で、どうやら人と深く関われない自分が生きるために、なるべく関わらないよう、相手を怒らせないよう受け答えをしてきた。だけどその「人を怒らせない対応」という受け身な言動は、むしろ感情面に深く関わって欲しいパートナーが相手の場合、逆に不機嫌にさせてしまう事もあると、結婚して初めて知ったのだ。
だから今、初めて私から人との関わり方を学んでいるのだと、夫は言う。

ついでに偉そうに言えば、自閉症スペクトラム全般への誤解は、外からは「閉じてる」ようにしか見えないが、「環境に対して閉じてるどころか開きすぎていて、情報に呑まれないよう閉じざるを得ない」という、感覚過敏的な反応が本質なのではないか?と、私は夫を見ていて思う。また、閉じざるを得ない根本原因には「恐怖心」があるのではないか?と思う。

つまりそれを少しでも取り除けたら、相手に対して閉じ過ぎずに済むのではないかと思い、私たちはその根本原因を掴み、認識し合う事で、"一緒に居る安心感”の獲得を目指した

では、その「恐怖心」はどこから来ていたのだろう?

決定的な瞬間ほど、キャッチーな取っ掛かりはない…

今年に入って、だいぶ相互理解が進んだと思っていた時のこと。
……残念ながら、こういった込み入った揉め事ほど、分かりやすく記録できるエピソードや会話例がないし、必死すぎて記憶がない……なので、具体性に欠けてしまうが、とても些細な事から揉め始めたのは確かだった。些細な事だったからこそ、もうダメかと思うほど私は絶望的な気持ちになってしまい、夫を感情的に畳み掛けてしまった。
それを受け止めきれない夫が、とうとうメルトダウンと呼ばれるパニック症状を起こし、一瞬、言葉が吃ってマトモに出てこなくなった。
その時、本当に夫が壊れて、元に戻れなくなるかも知れない、という強い危機感を覚えたし、そこまで追い詰めてしまった事がショックだった。
「もう何も考えなくていい、大した事じゃないから大丈夫、やめよう!」
と、リングにタオルを投げ入れ、試合終了。

この時しきりに、夫は頭が辛い事を訴えていたと思うが、私は私で話の内容に応じてもらえず、それに配慮する心の余裕がなかった。

振り返ると、この時が二人のやり取りが拗れた”成れの果て”で、行くところまでいった感がある。そして、こんな状況まで二度と追い詰めてはいけないと、私は思った。

「恐怖」の出どころ

たぶん、あと一歩の詰めが甘かった。
それが何だったのかを後日、二人で考えた。

会話をする際、夫の頭の中では言葉がどんどん上書きされていくのだと言う。私から、自分が実感の得た事のない言葉を投げ掛けられると、理解して返事をするために、そこに思考がとどまってしまう。でも会話は次へ進んでいく。処理が追いつかないまま、次から次へと言葉が積み重なっていくと、処理が終わっていない言葉が消化不良のまま、頭いっぱいになっていく感覚らしい。

特に夫婦の心理的な話し合いでは、私の感情面は言葉の意味としては理解できても、その経験の仕方や感じ方が全く違い、実感を得ようと頭を振り絞るうちに、また次の言葉が入ってきて、未処理の言葉が積み重なり頭がパンパンになるという悪循環がはじまり、頭がギューっと苦しくなるのだと言う。

理解した内容は通常、相手にレスポンスしていくのが定型コミュニケーションの基本で、「何を理解してもらえたのか/正しく伝わったかどうか」私の頭も無意識に確認を求める。だけどそれは、夫にとっては理解し終わり、頭に吸収され消えてしまった言葉をもう一度炙り出すような作業で、こちらの想像以上に大変なことらしい。

恐らくこの一般的ではない、脳の処理の仕方と苦しさは、私に理解してもらわない限り、どうにもならなかったと、夫は言う。

つまり、夫が一番恐れていたのは、私との会話で「実感の伴う理解から返事をするまで」の処理が追いつかず、頭がギューっと苦しくなってしまう物理的な問題が大きかったのだと言う。
そうなってしまうと、イライラ感と共に、話の内容そっちのけで、ただ私を黙らせるにはどうすればいいか?というモードに切り替わってしまうから、私の言葉を打ち消したり、一番言ってはいけない言葉をぶつけたりして、無理矢理黙らせようとしてしまうらしい。
その言動は、すべて私の感情を逆撫でするので、更に怒らせ炎上させてしまう。そうなると火に油で、もうお互い手がつけられない。
けれど、その物理的な問題は、生死に関わるほどの苦痛だという。

実際、あの日も、話にならない状態になり、何も解決しない不毛な話し合いのまま試合終了となった。こちらは、いくら話しても「分かった」と言ってもらず手応えは得られないし、夫は理解したくてもできず。落とし所が見つからず、お互い久しぶりに苦しんだ。
それは、決して凄く難しい事を話そうとしていたわけではなく、私にとってはごくありふれた、お天気のような些細な話だった。些細な話だからこそ通じないと、やたら不安になってしまった。揉めるときは大体、最初は些細な事から拗れて、どんどん話が深刻化していってしまう事が多かった。

この物理的に頭が苦しくなる時の条件は、いくつかあると思う。

①感情の表現(言語化)の仕方が分からない
②経験している気持ちが私と違う
③相手視点の気持ちを感じ取る事が困難

少なくとも、これらの要素のいずれか、もしくは複数が絡み合った時、夫の頭の中ではポッカリ何も浮かばなかったり、消化不良が起きてリアクションが取れなくなる。毎回決まった要素が原因ではないから、本人にも説明は難しい。説明したところで言い訳になってしまう。
この苦痛を私が知らない事には、夫の恐怖や不安が消える事はなかっただろう。

それにしても知れば知るほど、ASDと定型の相互理解パズルは最後の1ピースがどうしてもハマらないような、同じ話をしていても別の軌道から意思疎通を図り、次はいつ交わる時が来るか分からないような、不思議な感覚がするのだ。

『私たち』になるまで

私は、人との深刻な話し合いで心が苦しくなっても、頭が物理的に苦しくなるという経験はない。だから夫には心理的な苦痛もあるにしても、それを上回るほどの物理面の苦痛があり、それをいくら訴えても実感のない私には、生死に関わるほどの重大な事だとは、なかなか理解できなかったのだ。

つまり、私は相手と気持ちを分かち合えない心理的な苦痛を恐れていて、夫は自分の脳が物理的に耐えられない苦痛を恐れていた。そして、いつまたこうなってしまうか分からない…という『恐怖心』こそが、私たちの間に緊張や不安を生み出し、お互いの壁となっていたと分かった。

ここに至るまでは、理解を進めない方がマシかと思うほど怖くて、理解しても尚、こんなに苦しいのかと、何度も引き返したくなるほど心細い道のりだった。

だけど夫が自分の一番の弱点を自覚し、私がそれを受け止めて、お互い何を恐れているのかを共通認識できている今となっては、すっかり恐怖心が溶けてなくなり、驚くほど安心感に包まれた関係になった。

きっと、何が怖いのかが分からない、得体の知れない「恐怖」の出どころさえ分かれば”安心感”が得られるのだと思う。

そして、私の感情の中身は、夫と感じ方があまりに違う事は分かってきたので、共感への期待も以前のようにはない。むしろここまで、信頼や愛情など最も大切な感情は以前にも増して共有されている事が分かるようになり、他の細かな事はそれほど重要だとは感じなくなった。

会話で物足りなくなったら、自分のしたい会話ができる人と話せば良いのだろう。それを夫に期待するのは負担が大きすぎる。だけど、信頼関係のないまま、家庭外でエネルギーをチャージすれば良いと言うのでは私も納得がいかなかった。
勿論感情の共有をパートナーに求めてしまう私の気持ちは消えないし、夫も私を満足させられないのは嫌だと言うから、これからも日々教えて学び合う。
感情の表現の違い、視点の違い、恐怖を感じていた対象が心理面と物理面という違い。
お互いの違いを把握しつつ、常に歩み寄りの気持ちさえ忘れなければ『”ASDという障壁込み”で私たち』と言えるのではないかと思う。

夫婦という人間関係がスタートして、ようやく家族となり、『家庭になった』と今言える。
「山嵐のジレンマ」の互いの針が何なのかを認識し合えば、刺さる時があっても怖さはない。これからもお互いを尊重し合い、切磋琢磨していきたい。

私たちの会話は、ワンテンポ遅れてやり取りする衛星中継や、時には文通みたいなもので、その不器用なリズム感は、独特で味わい深いグルーヴ感を醸している。何周巡って交わるのか分からない、不思議な周期で分かち合っている。
きっとこれが”私たち夫婦のかたち”で、私はそのスケール感を割と気に入っているのだと思う。


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