自分を保つのに必死な世の中



SNSで、他人に対して過剰に攻撃的になり、過剰に罰しようとする傾向が年々強くなっているように思う。
犯罪行為などの明確な悪がハッキリしている場合を除いたとしても、必要以上に力強い“正義“を振りかざして押さえつけようとする人たちをよく見る。

その様子を見ていると、その人たちは本当にその事柄を憂いているのか?それ以上に他人を強い言葉で屈服させようという欲求が上回っていないか?と感じることがよくある。


なぜそうなってしまうのか。

自分なりに考えた答えのひとつは、


“自分の存在意義を保つために必死だから"

ということ。


自分は間違ったこいつを許さない。
許さないと思える正義を持っている。
自分は正義を執行する側の立場になれている。


その ”正しさ“ に “安心“ できるから。



誰しもが社会の中で自分自身の価値や必要性に疑問を持つことはあると思うが、そういった場合の多くは「この人に比べて自分は…」と周りと比較して自分を卑下してしまうことが多いと思う。

SNSでよりハッキリと他人の人生が可視化されて嫌でも目に入ってしまう状況だからこそ、その情報に振り回されて自分に自信を持って生きることがより難しくなっている時代なんじゃないかと感じる。

そんな不安を解消できる方法のひとつに、
「正義の味方になる」=「悪いやつを叩く」
が組み込まれてしまった。


"ONE PIECE"に登場するキャラクターの
海軍大将・緑牛という人物が

「差別とは安堵だ」
「人類は下を作って生きてきた」

と言うのだが、この言葉はあまりにも痛烈で、この世の隠せない現実というか人間社会の痛いところを的確についていて凄いなと思った。

実際、作中の使われ方としてはこのnoteの内容とは少し違うのだが、視点を大きくすれば同じ意味である。


分かりやすい敵がいると、
分かりやすく正義になれるので、
分かりやすく上に立てる。
そうなればなるほど
正義側でいられる自分に安心できる。
自分は社会の中で不必要なんじゃないかと恐れているからこそ、自分より下だと思う人間を見て自らの存在意義を必死に保とうとしている。
なぜなら、
自分で自分を救うことができないから。


本当は自信を持って生きたいけれど、上手くいかないことばかりの世の中で、そんな不安な気持ちが良くない方向に向いて社会全体が負のループに陥っている、窮屈で余裕の生まれない世界になってしまっている気がする。


他人を攻撃するより、自分を守ってあげること。
周りの人は関係なく、自分で自分を認めること。

これが理想だけど、これほど難しいものはない。
だから生きるのは難しい。


不安ばかりの未来だけど、誰しもが少しでも心の余裕を持って生きることができる世界になっていけばいいなと思う。







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