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私のモラトリアム

人生には意味も義務もない
から、どう生きるか自分で考えて答え(≠正解)を見つけるしかない

その時に重要なのは、自分は自分ということ
他人が言う幸せを無理に自分に当てはめる必要はない
裏を返せば、本や他人との会話を含め、誰かが幸せになる方法、生き方を教えてくれるわけではない
ましてや、ぼーっと生きていて急に空から降ってきたり、思い浮かんだりするなんてことはない

答えを見つけるには大きく2つの方法があるように感じている
どうしてもやりたい、なりたい、実現したいと思ったことを見つけ、妥協せず取り組むのが1つ
言い換えたら、何かに本気で生きるということ
たとえどんなに些細であっても真に満足できるものを見つけ、それ以外を切り捨てるのが1つ
言い換えたら、慎ましく生きるということ
また、これらと合わせて、主に人間関係の観点で自分の居場所を見つけるのが重要

どちらにしても、そう易くはない行動を起こす必要がある
退屈ながらも安定している生活を手放すのには、リスクが伴う

しかも、世の中には多くの情報、刺激、選択肢が存在している
気になるものを片っ端から探す、試すのでは、気力のあるうちに、気の確かなうちに納得するものが見つかるかわからない
運、すなわち偶然も絡んでくる
加えて、いろんなところで人生には(ゆとりや余分という意味の)遊びが重要だと言われている
まともに動いているだけでは、ただ疲れて終わるだけ
もしかしたら、全く興味のなかったところで求めていたものが手に入る可能性だってある

足を止める理由はいくらでもある
世の中はトレードオフで、あらゆる事象には表と裏が存在する
全ての判断、決断、行動に結果論がつきまとい、自分にとって得か損か分かるのは事後
絶対的な正しさなんてものは存在しないし、正解と不正解、善と悪は簡単にひっくり返る
どこまでいっても人は人のまま、不完全なのは変わらない

私は責任を負うのも失敗するのも大嫌いなめんどくさがりで、行動する以前、何か宣言をするのでさえ躊躇う
自分の枠に収まることだけやっていたい
こんな具合に世の中への恨みつらみを並べたてた上で、辛いことや苦しいことなど何もなく、ひたすら都合よく、状況が変わってくれればと願っている
結局、現実から目を背け、あるはずもない青い芝を求め続けているだけなのかもしれない

とはいえ、どれだけ考えたって、行動を起こさないことには状況が変わらない
どこかで妥協したら負けだ、いい加減覚悟を持てと叫んでいるような気もする

…こんなことを書いて、誰かに慰めてもらいたい、手を差し伸べてもらいたいと思っている自分がいる
自分は、自分とちゃんと向かい合えていないんじゃないだろうか
そうしてまた考え始めると、この文章の振り出しに戻る

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