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怖がり最強説

私おさんぽは、できないことを何とか避けて まあまあ長いこと
生きてきたほうです。
よーく考えたら、
やめといたほうがよかった、 ってこともありますが
なんとも幸運なことに なんとかなってきた、感じです。

このnoteでは、無謀にも 主観でしかない仮説を検証したいと思います。

「怖がり」が勝つ。怖がり最強仮説。

#ねえねえ尾身さん  一般的に、怖がりは弱虫で恥ずい ですよね?
今のところ
一番怖いヤツは、見えないちっちぇモンです。
いやいや、それだけじゃなくて他にもあるでしょう?
そうですね。ハイ、
脅威も色々ありますが「得体が知れない」「よくわからない」状態に置かれると 私達は、上手く対処できるかどうか不安になり、たいへん疲れます。
この一本道が どこへ続いているのかわからない、暗がりしか見えない怖さ。
多くの場合、疲れてくると人間の覆いが外れますね。心が麻痺する、と
いうべきか。
不安をどう扱うか、で進む道が分かれてくる。
怖がるか、怖がらないか。
とは言っても、
実際はそう単純ではなく 多くの人が行きつ戻りつしている。頭の中で、壁に当たっては引き返し、新たな不安が湧き上がる。怖くないと見せてホントは怖い、という表裏ある複雑な構造が 心を余計に疲れさせてくれるのですが、ここでは、シンプルに比較してみます。

その一;
疲れて あれこれ考えるのが嫌になり、どうでもよくなる➡用心しなくなる➡たまたま乗り越えられる➡安心すると、脅威をナメてかかる➡突破力が、強さであると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その二;
不安であることに疲れて➡これ以上不安が増えることから逃れたい➡壁を作る、防御する➡更なる脅威➡動けない➡弱さの露呈への恐怖➡心を閉じる
➡やめる、閉じこもる、逃げる➡SNSやメディアに救いを求める➡不安増幅

こんなに簡単ではない、ことは承知しております。
戦いが長引いていますから、私も、もう 1も2もどっちも経験済みです。
医療従事者です、不安です、怖いです、やめたいです、でも仕事しないと生活できませんから。

多くの人が 1と2を独自の割合で有する状況なのだと思います。
では、
社会が複雑になる前の、その昔、人間たちはどうだったのか。
不安や恐怖は常にあったはず。

以前も紹介したことがありますが、
ユヴァル.ノア.ハラリ著 「サピエンス全史」(実はまだ読んでる途中)
によると(私の勝手な要約です)
(時間の流れの中で)とうとう人々はとても利口になり、自然の秘密を理解できたので、動植物を 家畜化、栽培化した。そうなると たちまち彼らは
危険なうえに実入りの少ない狩猟採集生活をいそいそと捨て、満ち足りた
定住生活を始めた。しかし、ハラリ氏によれば、この話は夢想に過ぎない。

狩猟採集には自然の秘密を知ることが不可欠であり、彼らは多くを知っていて且つ農耕民よりも、もっと刺激的で多様で豊かな生活を送り、飢えや病気の危険は小さかった。
何らかの危険からは、移動して逃れることができたが
農業革命以後は
人々は栽培のため定住し、人口が増えたことで備蓄し不作に備えなければならなくなり、格差が生まれ、飢えや疫病のまん延や争いが絶えなくなっても、その場に踏みとどまり、苦しみ、そして戦うようになった。
今でも、紛争はなくならない。
人類は、数十人からなる小さな集団で、何百万年も狩猟採集をしながら進化してきたので、国家の単位で見知らぬ大勢の他人同士が「協力」するところまでは、未だ進化できていないのだという。限定的にしか協力できないものなのだ。定住、密集により人々は安心ではなく、未来への不安を心に定住させた。その一方で
(ちょっと難しいのですが)なぜ、人々が集まって生活できたのか、それには秩序が必要だった。神話に基づく秩序とそれを信じる民が。

私達(現代に生きるたいていの人)は、既に作られた「想像上の秩序」(共同主観的秩序)の中に生まれてくる。個人的な願望だと誰もが思っている「ああしたい、これが欲しい」という欲望は、その秩序の中の支配的神話によって形作られ、無意識にすりこまれている。それがそもそも自分の心から発されていないことに気付くこともできないまま、生きている。
お話は、サピエンスが、本来の自由さを手放して変化していく謎を解き明かしながら進む。

ヒメジョオン

ハラリ氏によれば、現代の私達の心は、もとより狩猟採集民のものだ。
脅威からは、逃げる。洞窟に隠れ続ける。
何かにすがり、祈る。顔見知りで助け合って、食べ物を調達する。
私たちはそうやって身を守ってきた。
しかし、その後
格差とヒエラルキーが生まれ、人々は共通秩序にはめ込まれ戦わされ、どんどん働き続けることになり、知らず知らず贅沢の罠にはまった。以前のように自由にふるまえないのに、後戻りはできなかった。
結局のところ、人々は随分前の生活様式を思い出すことはできなかったし、少しずつ改良しながら目前の変化に必死に対応するしかなかった。
秩序の枠から外れる不安定を排除し、苦労を受け入れた。
遠く先まで見通すことは、誰にもできなかったし、それは今も同じだ。

私達大人は、コロナ以前の生活様式を覚えているが、小さな子供たちは
マスクなしで外出していたことなど知らないのだから、そのことを殊更
問題にはしないかもしれない。今やどこにでもある透明ビニールの仕切りも、以前はなかったことを 誰も思い出せなくなるだろう。

知らない場所に行ってみたい、雑誌で見た、どこそこの景色をこの目で見たい、といった願望も姿を消すかもしれない。
学校の形も変わっていくだろう。
でも、それは
これまでもあった変化なのであって
必要に応じて、突貫工事で整えねばならない難しさの只中にいる、
ただそれだけなのかもしれない。

私達は、少し先しか見通せない。
怖いながらも少し先を見つめながら、道を進むしかない。
幸い、後戻りもできるし、すたこらサッサと逃げることだってできる。自分が納得できる進み方をすればいい。
人間たちは、これまで 用心深く行動し、守り守られ生き延びてきたのだ。
今更強がる必要性は、ないですよね。怖がり上等。

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今年92歳になる私の父は、被爆者です。
旧制中学校から旧制高校に進学し、その後は海軍兵学校に進もうと考え、昭和20年の夏、広島で勤労奉仕していたそうです。8月6日は、爆心地近くの
軍需工場にいましたが、本当に幸いなことに ケガもなく生還しました。
その理由は
何を隠そう 怖がりだったのです。

たまたま、ということもあるかもしれませんが、
窓の外に閃光が見えたので、すぐに地下の防空壕に入ったのだそうです。
そして、逃げなかった友人たちは 一人残らず亡くなってしまった。
焼野になった街には、雨が降りましたが、その雨がやんでから 寄宿に帰ったため、残存放射能にさらされはしたものの、今に至るまで直接的な影響によると思われる症状はなかったのです。
軍需工場であったため、地下の構造が大変頑丈だったのかもしれません。
本当言うと、
父から、その時の話をしっかりと聞いたことはありません。
叔母が父から聞いた話を、断片的に聞かせてくれたことがあったくらいで
思い出したくない つらい記憶なんだと、私から尋ねることはしませんでした。
どんなに怖かったことでしょう。
その場で閃光を浴びた人達の苦しみ、後遺症に苦しんだ多くの人達の想いは
おそらくずっと心の中にあると思います。
しかし、私は父に感謝したい。怖がってくれてよかった。

怖いことから逃げることは、まずもって正しい。
状況を確認し、自分で納得して 身を守るべく行動する。

怖がりは強い。怖がって なんとか生き延びろ。

誰もそんなこと言いませんけど
勝手に教えられたことにして
私は怖がり を貫きたいと思います。

生きるうえで、不安 は私達にずっとついて回ります。
これは、人間の歴史なんですね。
だから、
突き放さず 恐れすぎず 一定の距離で向き合っていきたい。
電話でも Zoomでも スペースでもいいですが
怖がりを晒せるもの同士で 不安を共有するのがいいと思います。
恥ずかしくなんかないですよ、
怖がりは、生き延びてきたんですから。

おさんぽでした。