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「君」に歌うことの虚しさの独白 『miss you』(Mr.Children)レビュー

Mr.Childrenの新アルバム『miss you』の発売以来、苛々した気分で日々を過ごしている。原因を探すと、SNSから飛び込んでくるアルバムへの反響が、自分のそれとはあまりに違いすぎて孤独感を深めていっている自分に気づく。しまいには、レコード会社であるTOY’S FACTORYの「優しい驚き」という広告文句にも反発感を抱いてしまう始末である。広告は「広く告げる」と書くが、その「広く」の中には僕は入ってないのではないかとまた寂しくなってしまう。

本アルバムのリード曲『ケモノミチ』は、「このSNS時代に誰に向けて歌を歌うか」という問いを投げかける歌のようである。

誰にSOSを送ろう
匿名で書いた柔な叫びを

『ケモノミチ』1番サビ

『ケモノミチ』は、「ケモノ」が生きた死と隣り合わせの時代と比べれば、僕たちは生温い時代に生きる「マヌケ」だと歌っている。確かに「広告が自分に向けられてない!」という当てつけのような怒りで孤独を深める僕は、幸せな「マヌケ」である。

桜井和寿もまた「マヌケ」だろう。極論、歌は人間の生存にとって不可欠のものではない。例えば、桜井和寿が全く売れていなければ、まず労働に身を埋めて食っていかなければならない。「誰に向かって歌を歌おう?」なんて問いは「マヌケ」の贅沢な悩みなのである。

だが、「マヌケ」も「マヌケ」なりに辛い。時代に合わせて必死に心身を揺り動かしながら、死に直結するわけではないが本人にとっては深刻な「柔な叫び」を持っている。さて、この「柔な叫び」を、SNS時代に誰が受け取ってくれるのだろうか……。

君にlove songを歌おう
月に爪弾いた 孤独のメロディ

『ケモノミチ』2番サビ

2番サビでは「匿名の誰か」ではなく具体的な「君」に向けてラブソングを歌うことを投げかける。こうした特定の「君」への想いを歌うのはMr.Childrenの十八番である。

しかし、この多様性の時代における「君」って誰なんだろう?桜井和寿は何万人ものお客さんを前に「君じゃなきゃ」と歌うとき何を思うのだろうか。

「誰にSOSを送ろう」という問いかけは、桜井和寿の中でも答えがないのかもしれない。少し前のインタビューでも作詞について「どこに向けてボールを投げればいいかわからない」と口にしていた。
『ケモノミチ』は2番サビで特定の「君」に向けて歌った後、再び「誰にSOSを送ろう」と迷いを歌い、「「仕返し」だけが希望 声もなく叫ぶよ」という歌詞で締め括られる。

***

僕はこのアルバムをMr.Children桜井和寿の「歌うことの虚しさの独白」と捉えた。

特に象徴的なのはアルバムの1曲目『I MISS YOU』だ。

淀んだ川があったって
飛び越えた その度ごとに
でもその意味さえ わからなくなるね

『I  MISS YOU』

I miss you
繰り返すフレーズ
迷って試して信じて疑って
何が悲しくって こんなん繰り返してる?

『I MISS YOU』1番サビ

この「淀んだ川を飛び越える」という歌詞はMr.Childrenの音楽活動の歴史そのものではないだろうか。Mr.Childrenはその歴史の中で音楽性を大きく変えてきたグループでもある。それはスターになりたいという純粋な願いを歌っていた初期や、実際に栄光を掴み取った後に知った苦悩が歌われた『深海』の時期など、桜井和寿個人の精神的な状態によって変わることもあれば、ファンの反応や時代の移り変わりを受けて新たな音楽が生まれることもあった。

その音楽性の変化は葛藤を乗り越えるという意味で、前進であったはずである。
しかし、『I MISS YOU』は「でもその意味さえ わからなくなるね」と自嘲気味である。サビでは「I miss you」と繰り返し歌う自分を「何が悲しくってこんなん繰り返してる?」と自己否定する。

そしてこの歌はこう締め括られる。

それが僕らしくて
殺したいくらい嫌いです

『I MISS YOU』

新アルバムのタイトルが『miss you』だと発表されたとき、僕はミスチルらしいなと思った。最近のミスチルらしさは「人恋しさを字余り気味に歌う」ところだと思っていた。
しかしそのミスチルらしさを『I MISS YOU』は「殺したいくらい嫌い」だと歌う。こうした自己否定はアルバムの節々に顔を出す。

掴んだ光さえ 歪んで闇に消えてった
取り返せもしないで
また今日も立ち尽くしている
(中略)
尖った分 その痛みが
走った分 その衝撃が
自分に返って来るから
星でも眺めて暮らしていたい
(中略)
真っ直ぐな想いだって
捻じ曲がって伝わっていった

『LOST』

『LOST』で歌われるのもやはり、自分がしてきた音楽活動の否定である。自分が必死になって掴んだものはこぼれ落ち、その反動ばかりが返ってくる、と後ろ向きである。
「桜井和寿は偽善者である。全てを掴んだ人間のくせに、普通の人間の幸せに浸っているフリをしている。」
こんな桜井和寿評を見かけることがあるが、桜井和寿本人は自分が全てを掴んだどころか失うものばかりだとすら捉えているようだ。

もしかしたらMr.Childrenは大きくなりすぎたのかもしれない。多様な音楽を生み出し、ファン層も広い。その音楽は、一人の人間が担うには巨大すぎる虚像を作り出し、もう「君」が誰なのか分からないのかもしれない。
ファンたちは無責任に『HANABI』のようなヒットソングを作れだとか、『ニシエヒガシエ』のようなロックを寄越せだとか、53歳の一人の人間に言う。

歌を歌い続けることは、何かを生産する行為であるようでいて、多くの反動を生み、傷つき、失っていく過程なのかもしれない。
とりわけ、「君」に向けて歌を歌おうとしてきた桜井和寿にとって、自分の歌が「君」に届いていないと感じているとしたら……、その虚しさったらないよなあと思う。
(そして、誠実に聴いたつもりだけど、僕はメッセージを大きく捉え違えていないと良いなと思う)

***

あとがき(厄介オタクのぼやき)
さて、僕の苛々はやはり身勝手なものである。誰が何にどんな感想を抱いてもそれは自由である。ただ、Mr.Childrenの音楽に救われた一人の人間として「どこにボールを投げていいかわからない」「リスナーの想像力を信用していない」という桜井和寿の言葉はやはりショックだった。僕はここでこんなにあなた達の音楽に救われているよ、みんなにも伝わっているよ、と言いたい。

しかし、SNSの反応を見ても「あなたたちの音楽はみんなに伝わっているよ」とは言えないと感じてしまった。僕だってちゃんと読み取れているかわからないのに自分を棚上げして他者を批判するのは卑怯だと思うし、1ファンが言うことではないのも承知だ。
でも「一番の駄作だけどうんちゃら」みたいな安易でショッキングな言葉を使った評価が注目されるSNSはやはりグロテスクだ。

『アート=神の見えざる手』という曲の歌詞がSNSでは話題だけど、あれってSNS自体のことだよねって思う。「、、、」やセックスというショッキングなワードは、歌詞の通り「大衆を安い刺激で釣る」ために敢えて配置されたもの。桜井和寿の意図は、そんな安易な「刺激-反応」関係に陥っている現代社会を演じてみせて、その皮相な価値観を表現して「もっと大事なものがあるよね」って言うことだと思ったけど。みんな『アート』の歌詞に釣られて、歌詞検索サイトでも1位だよ、マジかよ……。また、リスナーの想像力が信用されなくなるぞ……。
優劣をつける発言も違うのかもしれないけど、僕は『I MISS YOU』や『ケモノミチ』の歌詞をもっと味わいたいと思うけどな……。これも価値観の押し付けだよね、ごめん。

……やはり、この時代に「君」に向けて歌を歌うことは虚しいのかもなと思ってしまうのであった。なんだか寂しいね、それで『miss you』ってタイトルなんだね。

(この記事があまり怒られず、かつ僕に元気と暇があったら続き書く。『miss you』は虚しさだけを歌っているわけではないと思うのでその辺に触れたい。)

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